続々漂萍の記 老いて後/谷口 謙(北丹)(44)  PDF

続々漂萍の記 老いて後/谷口 謙(北丹)(44)

幼馴染み

 何の脈絡もなく、思い出したままを書いている。近所の人だから遠慮になるが、たかっちゃんのことを書こう。たかっちゃんはぼくが小学校に入る前からの幼な友達である。ぼくより1歳年長、「たかっちゃん」「けんちゃん」呼び合って幼年期を過ごした。ほとんど毎日、たかっちゃんはぼくの所に来た。2人で裏の庭で遊ぶのだ。裏庭にはほとんど野生の苺畑があった。この苺のことは何回か書いたような気がするが、やはりぼくの頭に染みついている。たかっちゃんは身長はやや低くて小柄、色が黒かった。ぼくは父の秘蔵っ子だったが、父はたかっちゃんも大切にしてくれたと思う。飴玉、チャイナマーブル、煎餅、たまにはカステラ、バナナ、二人で分けあって食べた。小学校に入ると級友ができてそれぞれ別になり、たかっちゃんはぼくの所にあまり来なくなった。たかっちゃんの父は大工だった。ぼくが宮津中学1年生の時だった。たかっちゃんには妹が2人あったか、双生児だったか年子だったかよく知らない。夜、父が往診から帰って来て、ひどく緊張した態度で母に告げた。たかっちゃん宅の妹2人を風邪で診ていたが、2人ともほとんど同時に死亡した。いつもと違い父の語調は陰うつだった。1時間くらいたったあとだったろうか。たかっちゃんの父が、よろりとした形で医院の玄関に現れた。父は逃げてしまい、母が応接をした。これはいつものことだった。

「奥さん、2人の女の子はどうしても死ななければならなかったでしょうか?」

 背の高い痩せ型の男だったが、呆然としたように立っていた。母は父は留守だと言ったらしい。父はすぐ村内の一の子分を呼んだ。ぼくはその時横にいたから、ありありと覚えている。

「ああいったおとなしい黙った男だから、何かする懸念があるかもしれない」

 子分は心得てすぐ席を立った。その後、何も起こらなかった。

 数日後のことだったと思う。ぼくは汽車通学をしていて、いつもの国鉄口大野駅の土手のプラットホームで同級生と話をしながら、汽車の来るのを待っていた。そこへたかっちゃんの父が仕事着で、弁当を入れた風呂敷包みを持って現れた。ぼくは父のうろたえた姿を思い出しはっとした。たかっちゃんの父はにこにこ笑ってぼくに近づき、

「坊ちゃん、お早うございます」

 ぼくはとっさに返礼を忘れた。あとで聞くと、宮津に仕事に行っているとのことだった。

 数日前、たかっちゃんは豌豆をビニール袋に入れて持って来てくれた。たかっちゃんは高等科を卒業すると、某丹後縮緬織物工場に仕事に行かされ苦労をしたと云々、家妻相手にしゃべっていた。ぼくが駅頭でその父に会ったとき、彼は高等科2年生だった。2人の妹さんのことは覚えているだろうが、死亡した時何才だったか、問えば答えてくれるだろうが、ぼくはその件については何も話していない。

 話はここで終わりにした方がよいかもしれないが、ぼくは仕事のことでたかっちゃんの息子さんにひどく世話になった。世の中はこうした形で廻っているのか。

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