続々漂萍の記 老いて後/谷口 謙(北丹)(41)  PDF

続々漂萍の記 老いて後/谷口 謙(北丹)(41)

草むしり

 昔のことになるが、古い庭の向かって左側の隅に小さな池があり、池は裏の小道の横を流れる小川に通じていた。ここは子どもたちの遊び場だった。泥鰌、鮒、でくろ(でべくろ)、目高、まれに鯉、等々。鰻を取ったと騒ぎ、蛇をつかまえていた悪童もあった。池の横に無花果の木と紫陽花の花樹があった。無花果はまだ青い頃から、子どもたちは争ってもぎ取り食べた。

 ぼくには12歳、10歳年長の大きく年の離れた2人の姉がいた。姉たちは無花果を食べなかった。裏の離れの部屋でお茶とお花の先生が出張して教えていた。近所の同年代の娘さんたちが集まった。4、5人だったろうか。なぜかお花の先生のことは覚えていないが、お茶の方は古い記憶がある。気位の高いしゃきっとした人柄だったように思う。宮津住の方で、汽車、当時の宮津線を使っておみえになった。宮津中学の1年生の時だったと思う。父母の命で宮津町の牧先生のお宅に贈物を持って行ったことがある。場所は京街道S産婦人科病院の向かって右の細い道を入って行った所だった。

 某日、牧先生がおいでになり、母が応接に出たら、先生は母にすがりつきしゃくりあげ、しゃくりあげ泣いて母を離さなかった。いやこれは夕食のとき母から聞いた話、牧先生が再婚される。あるお金持ちの所に後妻に行かれるとのことだった。なぜ牧先生は泣いたのだろうか。中学下級生のぼくには全くわからないことだった。

 今、朝夕30分ばかり裏庭の草引きをしている。白い花を見事に咲かせて花水木の散った後、その横に大きく成長した紫陽花の変種ハイドランジア・アナベルの白い花が咲き誇っている。どうも幼少時に植わっていた紫色の花を咲かせる紫陽花とは別のような気がする。大切にしていた紫陽花が枯れ、母が丈夫な花だと聞かされこの新種を買ったのだろうか。いやいや母の生存時にこんな新しい花が生まれていたか。このあたりになると、ぼくは首をかしげるのである。

 書こうか書くまいか、随分迷ったが、己の年を考え、思い切って記すことにする。牧先生の宅横のS病院院長はぼくが宮津中学1年生のとき4年生で、級長か副級長をしておられた。旧制高校、大学医学部名は知らないが、有名な秀才だった。その夫人になった人が宮津中学の同級生で宮津商業学校校長の息子であった福田敬の妹さんである。家妻より一級上で才媛、スポーツも万能だった由。この夫人からぼくは一度お手紙をいただいたことがある。内容は本誌に連載させていただいた「漂萍の記」の内容についてのご質問だったと思う。夫人は近年おなくなりになった由、宮津小学校での同級だった岩根医師より聞いた。岩根は警察医でぼくの先輩にあたり、剛直な方である。

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