続々漂萍の記 老いて後/谷口 謙(北丹)(32)

続々漂萍の記 老いて後/谷口 謙(北丹)(32)

教練

 宮津中学の教練、配属将校のことはさんざん書いた。松高の配属将校は入学した時は退役した佐々木中尉。中学とは全く異なって、のんびりしたものだった。最初の教練の時、

「裸足でよろしい。健康的にも靴をはいているよりいいでしょう」

 ぼくは驚いた。高校とは偉い所だ。教練は裸足でも、いや裸足の方がよいという。それでも三八式歩兵銃を逆にかついだ者はいなかった。内田という退役下士官がいて、締めよう、締めようとしたが及ばなかった。1年位はのんびりさせてやろうと思っていたのかもしれない。

 前谷大佐という偉い方も居られたが、精神的、修身的な講話がほとんどで、実際的な訓練はしなかった。大佐は前回書いた梅原の近くの出身の人で、その町、いや村かもしれないが偶像的に大佐、大佐と尊敬された人物だったらしい。

 梅原からいただいたらしい「淞友」には、松高6期文甲出の上野敏三氏が「母校の配属将校として―松江時代のあれこれ―」と題して随筆を書いておられる。それによると昭和18年5月に松江赴任。19年7月に中尉に昇進。召集解除。軍需産業住友化学の手続きだったらしい。ただ19年7月に松江を去ったとされると、ぼくたちのクラスは通年動員で門司に行っていていないはずなのだ。松江高校の配属将校期間は1年2カ月となる。だが不思議に思うのは、

「上野はんが退役になって辞めると言って嬉しそうにしていたぜ」

 なる発言をぼくは確かに聞いた覚えがあるからである。そのあたり曖昧模糊としているが、まあそんなことは大した問題ではないかもしれない。上野中尉の教練はこちらにも先輩という甘えがあったし、中尉の方も幾分後輩なるいたわりがあったかもしれない。が、ある程度の規律はしようがないことで、佐々木退役中尉時代とは話が違っていた。特に文科甲、乙の人たちは兵役が目の前に迫っていた。

「文科の人たちは皆立派に更生しました」

 これは内田下士官の言葉で、われわれ理科生は怠けているとの言い草だった。上野中尉は自分でも言っているとおり、生徒を絶対になぐらなかった。彼の「松江時代のあれこれ」のなか三瓶山演習のことが特筆されている。ぼくも1泊2日だったと思うが、軍の兵舎を借りて泊まったこと。美しい高原の景のなかの演習など追憶の情深いものがある。ああ、もう一度あの高原の中に寝そべって、夜は温泉に入り楽しみたい。以後何回となく青春追憶の情にまきこまれた。だが行ったのは一夜かぎりで、1年生の時か2年生の時かはっきりしない。

「松茸が生えているかもしれんで」

 こんな心の声があった。

 ところが上野回想録によると、三瓶演習でひどく怒った事件のことが書いてある。身体に障害のある生徒を仮設敵に廻し、健康な生徒たちで分隊を造り攻撃演習をする。その最中、クライマックスの時に仮設敵の塹壕内から煙草の煙がゆらゆら立ち昇る。上野将校は怒って3人の生徒を呼びつけどなりつけたが、3人は冷然として喫煙はしていないと言う。上野将校は思わずぶん殴りつけたくなったが自制した。彼は数え切れないほど殴られたが、自分は遂に一度も相手を殴らなかったと言い切るのである。この煙草事件はぼくの記憶のなかにない。ぼくたちの1級上のクラスでの話だろうか。

 同級生の吉野寛のことは書いた。上野将校も彼のことを×という名にして書いていらっしゃる。高橋寛丈教授は英語の先生でイングランド留学の経験もされたおだやかな方だった。ぼくたちは高橋教授と出水、森の3人の先生から英語を教わった。その高橋教授がたまたま廊下で上野氏と会ったとき、教授が氏に吉野が朝鮮人であるのを知っているかとおっしゃった。上野氏は全く未知で驚いたが日鮮は協同して戦争をしているし、本人はしっかりしているから今さら軍事教練閲兵分列中隊長は変更できない。彼にまかせることにした。そして吉野は立派にその重責を果たした。上野氏が松江を去った後、吉野は検挙され朝鮮に連れて行かれたと記しておられる。今生きていたら、韓国か北朝鮮の大物になっているかもしれない云々。

 この事件は全く嫌な話だが、事実として書き残しておきたい。

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