続々漂萍の記 老いて後/谷口 謙(北丹)(31)  PDF

続々漂萍の記 老いて後/谷口 謙(北丹)(31)

岡村教授余禄

 米子中学、五卒、梅原昇。がっちりした筋肉質の堂々たる体躯の人。自宅は米子市付近。農家の出と聞いた。京大工学部卒。阪神電鉄に就職したが百貨店の方に廻されたらしい。定年の時は店長だった。

 年賀状の交換だけを続けているが、恐らく彼から貰ったものだろう。古い書棚を探していて、「淞友」No.11。昭和47年(1972年)発行を見つけて嬉しかった。この連載を書き続け、己の青春の記にしたいと願った。無手勝流と言おうか、昭和17年4月から19年9月までの松江高校時代。貧しくはあっても我が青春期。今になって忘れられないものだけ書いてもいいじゃあないか。美化もあろう。俗化もあろうが追憶の思いは美しい。こんな考えで書き始めたのだが、永らく忘れたままの資料が残っていた。古い雑誌をめくると、教わった教授たちの名前が次々に現れて嬉しかった。格好の資料を得た思いである。

 この連載でさんざん書いた岡村弘教授。教授は高知県の出身で高知高校第1期生。松江高校から島根大学、昭和45年神戸大学教授に転じ、定年直前に関西学院教授になられた由。戦中戦後の大変な時期に10年間松江に在住された。赴任は昭和16年、太平洋戦争の始まった頃、弘前高校より転じられた。その翌年の4月からぼくらは先生にしごかれたわけだ。関西学院でもドイツ語の先生だったのだが、会見の場で現在の学校は生徒数が多くて思うような授業ができないと、こぼしておられる。あの松江時代。ドイツ語文法のイロハを教わった時代の1対1の例の毒舌の容赦なき授業はできなくなったとの意であろう。だが、教授の文学はとうとうぼくは読めないで終わったが、「新潮」誌の小説応募に倉本兵衛のペンネームで選外佳作の第1席に作品名とペンネームが掲載されていたことは覚えている。森鴎外ばりの史伝もので、俗受けするような作品ではなかったようだ。

 同誌に森亮教授の詩集『庭と夜のうた』の紹介記事が載っている。岡村教授とは正反対の、温厚なやさしい授業だったが、何かの機会で一度だけ1対1で話し合ったことがある。私宅を訪問したことはないので、どこで会ったか思い出せないのだが、農家へ勤労奉仕。田植えか稲刈りの時の食事時だったかもしれない。ぼくが岡村教授の厳しい授業を訴えたら、

「ドイツ語の入門文法の教え方はあれでいいんですよ」

そしてちょっと苦笑といった形で、

「あの方、文学好きで小説を書くんですよ」

そのときぼくはまだ「新潮」誌のことは知らなかった。

「うーん」

ぼくはうなってしまった。昭和47年は1972年だから、38年前のこととなる。恐らく岡村教授はご存命ではあるまい。

 梅原のことを京都出身の同級生が、

「あいつは田舎者よ」

と言い捨てたことを覚えている。米子を田舎とすると、京丹後市(旧口大野村)住のぼくは超田舎者と言われて仕方あるまい。

 悲しい思い出もある。同誌109ページの広告欄に前に書いた。ひだりふじこと左藤の会社の記事があった。「河野薬品株式会社 専務取締役 河野弘(22―理甲) 大阪市東区道修町○の○」

 梅原の記事もあった。「22理甲 梅原昇 阪神百貨店外商部長(管理部次長より)」

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