続々 漂萍の記 老いて後/谷口 謙(北丹)(39)  PDF

続々 漂萍の記 老いて後/谷口 謙(北丹)(39)

上田三四二賞

 今回詩誌「楽市」のリーダーである三井葉子氏が、上田三四二の生地、兵庫県小野市から出す第1回の賞を詩の分野でお受けになった。はからずも上田とぼくは、昭和23年京都大学医学部卒業の同期生である。偉い人なので上田三四二氏とせねばいけないだろうが、今回の連載では、中学、高校、大学の同級生、仲間たちはすべて敬称を略させていただいた。故上田三四二の前に深くお詫びをして、もう終わりに近い連載を書かしていただく。上田は三高出身だった。当時の京大医学部の学生たちのなか、主導権を握っていたのは三高出身の人だったと、はっきり言い切れるような世相ではなかった。戦中戦後のひもじい体験の時代だったのだ。だがやはり世相とは言え、学生生活は学生生活である種の流れがあったと言えるような気もする。

 上田の郷里が兵庫県三木市であることは知らなかった。いや、話したこともなく、顔もよく知らなかった。舞鶴国立病院でのインターン生活の終わり頃か、終わってすぐ位だったろうと思うが、文学青年だったぼくは本屋の店頭で、文芸雑誌「群像」の賞の発表を見つけ、そのエッセイの部で斎藤茂吉論を書いている彼の名前を発見したのである。あっと思ったのは瞬間でなかを読みもしなかったし、貧乏していてお金もなかったので購入もしなかった。その後の彼の活躍はすさまじかった。短歌、小説、エッセイ、あらゆる分野で彼は書き続けた。群像新人賞以来、何回大きな賞を受賞しただろうか。十指に余るのではなかろうか。没年近く宮内省の新年短歌の選者にも選ばれ、その後不幸にも癌疾患(詳しい病名は知らない)にて若くして死亡した。生きながらえていたら文化勲章のレベルまで達していただろう。

 あとで人伝えに聞いたのだが、医学部に入って間なく、まだ戦中、舞鶴海軍工廠に学徒動員に行ったとき、夜眠る前の時間を利用して茂吉を読んだ。これが茂吉との初対面であったという。いやこれは何かで読んだのかもしれない。ぼくは若くして郷里で開業をしたのだが、文学好きは残っていて、上田の小説、エッセイ等で文芸雑誌に発表されたものはほとんど目を通したと思う。ただし短歌は捨てていたから、その方は知らない。とにかく彼の文壇における活躍はすさまじかった。書くのも恥ずかしいが、当時ぼくも小説を書いていた。「文学界」に同人雑誌評の欄があり、数回取り上げていただいた。嬉しいのは嬉しかったが、その雑誌の巻頭近く、上田はその創作を発表していた。

 これも不思議な縁だが、K市T百貨店のY氏とおっしゃる方に洋服を作ってもらったことがある。彼は上田かあるいは夫人の従兄弟だと聞いた。上田の没後間もない時のことだったから、ぼくはぶしつけに質問をした。

「天皇家から香資が来ましたか」

「参りました。内容は存じませんが」

 つつましくY氏は返答をされた。

 三井氏を仲介にして不思議な縁を思い起こした。

 夫人はまだ御存命だろうか。

(平成21年5月18日付で5月23日の第1回小野市詩歌文学賞授賞式を中止する。県内外でインフルエンザが発生し、その感染拡大を防ぐため、と連絡があった。)

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