続々 漂萍の記 老いて後/谷口 謙(北丹)(38)  PDF

続々 漂萍の記 老いて後/谷口 謙(北丹)(38)

 昭和21年4月3日、所用にて宮津まで往復をした。往路、水戸谷峠に行くまで、左側に桜の並木が作られている。蕾はまだ薄い桃色で横からななめ上方に見えていた。帰路午後5時過ぎ、水戸谷鉄橋の下を通り僅かな登り道、むかし宮津中学に汽車通学をしていた頃、ふるえながらデッキに立ち山の上に咲く桜を見ていたことがある。当時歩道に桜の木はなかった。吊り下げて境界をきめる標識を通過すると、与謝郡から京丹後市に入る。気持ちだけかもしれないが、桜の蕾の色が少し淡くなったように思えた。だが大宮町谷内に入り、竹野川の堤防に並んだ桜は水の影響があるのだろうか、蕾がずっと大きく、色調も濃いように思われた。

 4月6日、家の前の神社の桜を見に行った。午後1時、第一の鳥居へ登る石階を登って向かって左の桜、大きく蕾をふくらませ、明日、明後日の開花を思わせた。だが幹は太く老樹となってしまっていた。子どもの頃から見慣れた桜だったが。でも大きな枝を伸ばし鳥居の上部まで届きそうだった。右に無人の社務所があり、その左側に大きな椿があり満開、その横に土道の登りがある。足が痛いがやっと登り切る。樹のしげった広場には、昔、横に長い石材が椅子代わりに置いてあった。今はない。古い追憶、昭和17年松江高校に入った時、父の書棚から翻訳ゲーテ全集の1冊を抜き持って座った時と同じ、つまらないことを覚えている。前にも書いたかもしれぬ。ゲーテは退屈で読めなかった。当時見おろした風光、家並みはすっかり代わり、昔の面影はない。バイパスに押され歩く人も少ない。全くさびれてしまった。昔の母校、口大野小学校の校庭を見やり、左に曲がってぼんやり立ちすくんだ。京都口大野人会と銘の入った唐獅子が左右に並んでいる。あとしばらくで更に年を加える。考えまいと思い首を振って、一番長い石階を降りる。この石階で転んで骨折をした老人があった。松葉杖をついて村会議員の会合に出ていたが、ぼくを大変可愛がってくれた。ぼくは骨折は困るので、一歩一歩しっかり足をふんで段を降りる。詩は書けなくなったが、まだ散文、随筆は書ける。

 4月7日、火曜日、小さな仕事で峰山町に行き、午後3時から3時半まで。帰路、前回書いた飛行場跡の桜を見に行った。花は満開、いや九分八厘位だろうか、明日からは散り始めるかもしれない。花見の用意は終わっていて、赤い提灯が吊られていた。だが人影はなかった。桜林のほぼ中央、ここで飛行機特別訓練をしていて生き残った人達の建てた石碑がある。中央に大きな錨のマークがあり、峰山海軍航空隊、と刻んである。旧河辺村から長善村に通ずる道路、竹野川に架かった橋の欄干に低空飛行の練習をしていた少年が激突死亡した事故があった。サクラチル、暗号の恐らく全滅の報知だろう。

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