続々 漂萍の記 老いて後 谷口 謙(北丹)―<2>剣道

続々 漂萍の記 老いて後 谷口 謙(北丹)―<2>剣道

 宮津中学1年生の後半のことだったと思う。校の規則で全員が放課後、各運動部に所属して各部の練習をすることになった。競技部、庭球部、バスケット部、水泳部、体操部、剣道部、柔道部等々。他にもあったかもしれない。剣道と柔道は正科目で、入学直後それぞれの希望により分けてあった。もっとも、剣道志望が多くて、柔剣道の先生と各個人の3人で話し合いが行われた。ぼくは「父の命で剣道を選びました」と答え、それでどうにか剣道の方にまわされたのだった。父は古い考えで、柔道とはやわらで士族の系列の者がやるべきではない、という考えを持っていたようだ。でもやはり、そんなことは柔道の先生の前で言うべきことではない。この位の知恵は、ぼくでも持っていたようだ。

 正課の剣道を延長した形で剣道部があった。小学校の時から剣道を習っている人もあり、特殊な業を持っているとの噂も聞いたが、ぼくは全く無縁、竹刀を持ったこともなかった。道場には木製の名札がかけてあり、筆頭は武徳殿初段、次は校長が与える学校初段、続いて1級から8級まで、その下に級外者があった。運動のからきし駄目なぼくは、どうしていいかわからない。それでとりあえず、剣道部に入った。放課後1時間〜2時間位、稽古があったと思う。有段者や有力選手は華々しい稽古をしていたと思う。ぼくのような不器用は、やあやあと竹刀を振り廻すだけである。

 でもそんな中で、友達ができた。滝野といって宮津小学校の出身。同じタ行で名簿も近かった。ちなみに、誰もが“タツノ”と呼んだ。本来はタキノだと思うが、やはり一種のニックネームか。ぼくのニックネームはあまりはやらなかったが、“卵”だった。つぶしやすい、こわれやすいくらいの意味だったろう。

 滝野は剣道が強かった。斜に構える刀で相手を眩惑した。勉強もよくできた。当時クラスはAB2組で、生徒数百人。その中で滝野は4、5番を維持していた。なぜかぼくはタツノと親しくなった。いや、ぼくの運動のできないのを同情したのかもしれない。

 中学2年に進級、また7月の水泳の時期が来た。赤坊で罵られた恐怖のシーズンだった。おそらくぼく1人、新1年生と一緒にやらねばならない。彼らは遠泳に合格し、それぞれ赤坊に白線を増していくだろう。だが部活動で活躍する者は、水泳を除外された。ぼくの剣道は、どうしても一人前でなかった。水泳組に回されるに相違ない。剣道部の夏季練習は校内でなく、宮津町の山林の中だった。これは中学所有のものだったか、町のそれだったかわからない。静かな環境のいい所だった。ぼくは一計を案じ、剣道の道具を持ち、タツノについてその道場に行った。剣道の先生は、たしか稲葉なる姓だったと思う。ニックネームは“蟹”で武徳殿5段だった。四角な顔でまさしく蟹のような風貌だった。ぼくのような無能な生徒は、ふり向きもしてくれなかった。それでもタツノに付いて山中道場に行くのに文句は言わなかった。何か同情めいた感情を持っていてくれたか。タツノについて面を被り末座に座っていても追い出しはしなかった。

 ぼくは2年生の水泳を免れた。クラスの中で非難のあったのは知っている。タツノとの付き合いはその後も長く続いた。また機会があったら書いてみたい。

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