特集1/西陣今昔 天神信仰・西陣織・医療事情

特集1/西陣今昔 天神信仰・西陣織・医療事情

渡邉 本日は、「西陣今昔」というテーマで、西陣という地域に焦点を当てて、地域や人々の移り変わりなどを語っていただこうとお集まりいただきました。今後は京都の他の地域へ広げていきたいと考えており、その初回という位置づけです。そして今回は特別に、この地に縁の深い北野天満宮の一室をお借りして、宮司さんと禰宜さんにもご参加いただき、天神信仰のお話などもお聞きしようと思います。まずは宮司の橘さんに天神さんの起源をお伺いします。

渡邉 賢治 理事
<進行>渡邉 賢治 理事

北野天満宮の起源は雷・怨霊・農耕信仰

 元々、御所が足利時代に現在の場所に移るまでは、千本通が朱雀大路で、千本丸太町の北西に大極殿址が残っていますから、この場所は御所の西北角で、四隅の鬼門にあたります。神・仏を鬼門に祀ることによって都を守るという町造りがされ、そこから天神信仰が生まれて、祀られたのが北野天満宮の始まりです。

 菅原道真公(以後、菅公と呼ぶ)は延喜3年(903年)2月25日に薨去されるわけですけれども、多治比文子という西の京の巫女に北野に祀れという託宣があり、また近江・比良宮の禰宜神良種の子にも同様の託宣があって、ここに祀られます。菅公は右近衛大将をお務めになられたこともありました。当宮の馬場が右近の衛府だったところで、おそらく馬を調教しておられた思い出の場所でもあり、遣唐使の渡航安全祈願をしたご縁の場所、御所の鬼門、と様々な要因が重なって託宣につながっていったのだと考えられます。

北野天満宮宮司 橘重十九氏
北野天満宮宮司 橘重十九氏

正木 北野のあたりが開けだしたのは、門前町で人が集まったからなんでしょうか。

正木 美智子氏(西陣)
正木 美智子氏(西陣)

 室町時代に御所が今の場所に移ります。私の推測ですけど、その頃から門前町として栄えたのでしょう。上七軒も室町時代から起こったと言われています。御所の北側なので上七軒という名前もいただいたそうです。

正木 上七軒というのは京都で一番古い花街なんですね。

 そうですね。

垣田 私たちの認識では、北野天満宮は学問の神様だと思っていたのですけれど、それだけではないのですか。

垣田 さち子副理事長
垣田 さち子副理事長

 天神信仰の誕生期に関わるいろんな要素が絡んでいるのです。雷は怖いけれど、稲光りは、雨と共に恵みを与えてくれます。科学的にも稲光りは豊作につながるらしく、それを古代の人は先祖からのことわざで伝承されてきました。天神様の怨霊に雷の信仰と農耕の信仰とが、重複されたのです。

文化の継承、天神信仰が大きな役割

 日本人がこの地に住み着いて6万年ということらしいのですが、同じ民族がずっと居続けているというのは日本だけで、これは世界に類を見ないそうです。例えば中国は4千年の歴史でも、民族が代わりますので、漢字は残っても文化が受け継がれていません。その点、我が国の古典籍はもとより、神主の奏上する祝詞も、何回も聞くと何となく意味がわかってくると思います。日本人だけが今に文化を継いできている証です。これは素晴らしいことで、その文化の中心が京都であるということは、一層素晴らしい。そして、そこには菅公の働きというのもあるのです。

 1400〜1500年前に仏教や道教、儒教、陰陽道などの宗教、漢字や律令制等いろんな文化が入ってくるわけです。それまでは少しずつだったものが怒涛のごとく入ってきました。

 中でも新しく入ってきた仏教の諾否を巡って200年ほど混乱が続きます。政治が安定しないために都が転々として、桓武天皇が延暦13年(794年)に平安京を開かれる。そして、それまでの奈良仏教に変えて、伝教大師・最澄に延暦寺、弘法大師・空海に高野山の開山を許されて神仏習合が加速し定着。今は神仏習合が当たり前になっていますけれど、そういう民族は日本人だけです。

 昔の人は、命は人知を超えた神代からきていると考えた。それが「産霊」という言葉、おにぎりのことをそう言いますね。「産霊」というのは生成される力を言い、それが神道の原点です。一言で言うと「敬神崇祖」。そういう古来からのものと、仏教の慈悲や悟りの精神が車の両輪のように、両極にあって素晴らしい日本文化を創っているわけです。

 『菅家遺誡』という、菅公の末裔による家訓に、「和魂漢才」という言葉があります。日本固有の精神を失わないで中国の学問を修める、まさにそういうことだと思います。この言葉は明治になって「和魂洋才」に転化されます。

 天神信仰は「和魂漢才」と菅公の生前の「至誠の精神」とが相まって「文道大祖・風月本主」と崇められるようになりました。茶道や華道といった「道」は日本人固有の文化で、人が人をもてなす心を表したものであると思います。天神信仰はそうした茶之湯の道をはじめとする、あらゆる伝統文化と関連しあって文化国家形成の一助を担ってきたのです。

 日本文化は「源氏物語」に代表されるように世界に類を見ない文化で、神と仏の両輪に天皇が作用されて、高度な日本文化を作り上げてきました。

 当宮の創建は村上天皇の天暦元年(947年)6月9日。国家の大事を祈願する22社に加列。臣下を祭神とするお社は北野天満宮だけで、あとは神話の神様。この世に出てきて亡くなられた一人間を祀っているのはここだけで、それだけ朝廷の信仰が篤かったということです。全国に神社は8万社あるうち、天神様は1万社以上もあります。

 天神様は、菅公が大宰府へ左遷されて行く途々に祀られていく神社が数十社。他の天神様は平安時代、各地に当宮の荘園ができて、80カ所くらいにご分社が建ちます。それからまた全国に広がっていく。圧倒的に増えたのは江戸時代です。

 江戸時代の寺子屋は、読み書き、算盤等を習うわけですけど、当時日本人の識字率は50%。2位はイギリスのロンドンが25%、これは都市部だけの数字なので国全体でいうと数%。当時の日本は世界最高の教育水準であったといわれています。そこには必ず天神さんと孔子さんの像があり、道徳規範とされたのです。

 北野天満宮は今で言う国会図書館のような役割もあり、「解体新書」などの研究書が献本され、貴重な本が2万5千冊あります。

正木 天神様には、よくお相撲さんが土俵入りにこられますけど、それも関係あるのでしょうか?

 そうです。菅公の祖先に野見宿禰という人がいて当麻蹶速という乱暴者を屈伏させたと日本書記にあり、これが相撲道の起源とされている由縁からです。

垣田 北陸の方たちは必ず男の子が生まれたら天神さんの肖像を送るそうです。菅公はあちらには行ってないのになぜ?

 前田利家公は北野天満宮を信仰されていて、菅家の末裔とまで名乗っていることに由来し、藩内に広がりました。

成田 大宰府とこちらのご関係は。

成田 稔氏(西陣)
成田 稔氏(西陣)

 明治天皇に例えると桃山御陵がお墓で、明治神宮が神社です。大宰府はお墓で、神社として祀られたのはここが始まりです。

日本人が忘れてはならないものとは

 数年前話題になった『国家の品格』の著者・藤原正彦さんの話にもありましたが、日本にはノーベル賞受賞者が20人ほど出ている。日本は高度な文化があって、その下に技術が生まれた。それによって、風下の産業が栄える。それが日本の誇りだから、日本人はそういう文化を大切に守りなさいと。

 藤原さんの話の中で、フランシスコ・ザビエルが日本の道徳や倫理は世界一と褒めたと言ってます。また、明治の初めにバードという女の方が一人で東北を横断した。東北は貧しくて飢えで死ぬ人が多いのに、皆柔和な眼をして、一人旅の女性が傷つけられることなく無事に江戸まで辿り着いたと。また江戸末期に、シュリーマンというトロイ遺跡を発見した人が、中国では船代の4倍の額をとられたので、日本では倍額を渡したところ多いからと半分返ってきた例を上げ、高度な日本文化を紹介。大事にしなさいと。全く同感で、そこに天神信仰の働きを痛感します。

垣田 かつての西陣と、今の若い人たちを比べて現状をどう感じておられますか。

 菅公精神の「和魂漢才」と「誠の心」は、日本人が一番大切にしなければならないものだと思います。正直さ、素直さというのは素晴らしいわけですから。

 オランダのノーベル学者であるローレンツという人が、「国を滅ぼすのは兵器ではなく、過保護な幼児教育である」と言っています。藤原さんも同じように「子どもにおもねいてはいけない」と言っておられます。女の子や自分より弱い子をいじめたらいけないとか、大勢で一人をいじめたらいけないとか、人間の基本、それを小さい時に教えないといけない。それも一桁の歳の時に心に魂を打ち込む教育が大事だと。怒るときは顔色変えて怒る。それが人が生きていく人生においてブレーキになるんだと思うんですね。

 ここ10年くらい世の中が変になってきていると感じます。私たちの子どもの頃は戦前の方が多かった。でもその方たちは今70歳以上で、発言もされない。日本人というのは全部捨ててしまう民族だそうです。例えば明治維新、終戦時。捨てるのはいいけれども、捨ててはいけないものもある。それは今申し上げたようなことではないでしょうか。民主主義や自由、平等とか権利は大事なことだけど、幼児教育においては叱ることも大事だと思います。先生と子どもがお友達では教育にはならない部分があると思います。

垣田 日本人の教育の根幹に天神信仰と通じるものがあるわけですね。

 そうです。道徳という一番素晴らしいものを日本人は忘れつつあるように思います。ただ、それを守っているのは、お寺や神社だと思います。今の期間は神社やお寺が死守して、いずれ社会が気付けばと願っております。

垣田 京都はやはりそういうものはなくなっていないというか、守られていますよね。全国からそれに憧れて京都へ行きたいというのがあるみたいです。建物やお庭を観光するだけでなく、そこに住んでいる人たちの生活を知りたい、京都の食べもの、暮らし方、そういう全体が人々を惹きつけているみたいですよ。

渡邉 橘さんありがとうございました。ここからは梶さんにも加わっていただいて皆さんの話をお聞きしようと思います。

西陣周辺図
西陣周辺図

西陣織の全盛、機織の音が身近にあった頃

成田 私は丹後の育ちですが、丹後というのは西陣と縁がありまして。丹後では、たいてい個人の家で織物をやっていました。私が京都に来た頃も西陣で織物をやっているところは多かったけれども、この頃はほとんどあの“ガチャン・ガチャン”という音は聞こえてこないですね。

正木 この界隈はどこでもその音がしていました。

成田 私たちが子どもの頃は、丹後で織った縮緬の白羽二重をたくさん籠で背負って、何十人ものおばさんが二条駅を降りる風景がありました。西陣へ反物を買ってもらいに行く「常便」と言いまして、朝5時の汽車に乗って毎日往復、それが戦前、戦中もずっと続きました。

正木 京都の白生地は丹後で織って、京都で染めて京染めになったんですね。このあたりで機を織っていたのは、帯ですか?

 着物もありましたが、主流は帯と聞いています。

北野天満宮禰宜 梶 道嗣氏
北野天満宮禰宜 梶 道嗣氏

正木 染めたものを、堀川や紙屋川で洗っていましたね。

垣田 堀川を流れている反物が綺麗だなと、バスから見ていたのを覚えています。それが高い櫓に干されて風にはためいていました。

成田 戦後も相当長い間やってましたよね。今は堀川も川幅が狭くなってしまいましたが。

 養蚕というのはすごく歴史が古いのですが、ここにきて日本ではほとんど、なくなってきています。伝統産業がなくなってしまうおそれがあるからということで、宮内庁では皇后陛下が、元来の日本にいる蚕を使って皇居の中で養蚕されています。

成田 小学生の頃は、養蚕農家に蚕を数匹もらって、近くの桑畑から葉を数枚とってきて、こうやって繭ができるんだなと遊びの一つとしてやっていました。

正木 私もやりましたよ、小学校の理科の時間だったと思いますけど。

渡邉 私も甲府で過ごした高校の頃、家の裏が桑畑で、葉は蚕が食べて、実は自分が食べましたね。

正木 桑の実は紫色できれいでおいしいんです。

成田 紫色の実はおいしかったですね。

垣田 母の実家が農家で、何段にも蚕棚作って飼ってたんですよ。シャリシャリシャリシャリってあの音を覚えています。今の子は全然知らないんですね。絹って大事だと思いますけど。

正木 もう元に戻らないんでしょうか。

 蚕がいないんじゃないですか。それこそ宮内庁に行かないと。

渡邉 手術で使う絹糸も、外国産ということですかね。

垣田 今でも絹糸をお使いですか。今はもう吸収される人造糸に変わってたのかと思っていたら。

渡邉 絹糸は締まりますからね。肛門科ですので、思い切りしめてあげないと痛いですから。

 もうほとんど外国産だと思います。日本で作られた糸でも、元々の蚕は外国のものでしょうね。

成田 確かに細くて強いですからね。

正木 この頃、手術後によくヘルニアがおこりますでしょ。絹糸使ってきっちりしめてくださらないからかしら。医者がそんなこといったら何ですが。(笑い)

渡邉 糸を縛るとき、一回目をくっと締めたときに切れたら糸が悪い、2回目で切れたら腕が悪い、と言われていました。

西陣織の衰退、まちの様変わり

渡邉 織子さんが仕事が終わってから診察できるように、診察時間帯を遅らせていると、以前に聞いたことがあります。

垣田 京都は6時から8時の夜診が当然のことのように浸透していますけれど、全国的には大阪と京都くらいです。住民のために夜も開けていると言うと、皆さんびっくりされます。私たちは当たり前だと思っていました。

 西陣が衰退していくことは寂しいですよね。マンションや駐車場ばかりになって、本当に様変わりしています。

正木 やはり織物が衰退して機織の人がいなくなるからでしょうか?

垣田 私たちが開業した頃には、たくさんの織手さんがいました。それが、機を潰したらお金がもらえるという時があって、それでおかしくなった人が何人もいました。自分の生涯かけてきたものを目の前で潰されれば、普通ではいられないですよね。そういう報奨金が、西陣を全部潰していったのです。間違っていると思います。

正木 農家の減反政策のようなものですね。お米作らなかったらお金をあげるということと同じですね。

垣田 結局、西陣の街自体はどうやっていくんだろうと思います。

正木 天満宮の方として、最近の西陣をご覧になってどう思われますか。

 私は生まれも育ちも西陣なので、変化を目の当たりにしてきました。私の住んでいる町内は、敷地の大きい織物関係の会社がたくさんあったのですが、今は公園になってしまいました。ですから、町内の住民票登録は1軒のみです。

正木 山の中の村で1軒になってしまったというのは聞きますが、街中でね。

垣田 あの辺りは中心でしょ。

 業者さんも基盤のしっかりしているところは残ってますけど、跡形もなくなくなってマンションになってしまったところもあります。変わったというか、ひどい状況ですね。

正木 天神様のお参りの方でも変わったというか、初詣も昔は綺麗な着物でしたのに、この頃はジャージですからね。

 昔は着飾ってお越しになる方も多かったのですが、華美なものは数十年前くらいからほとんど見られないですね。

正木 着飾るというよりは神様の前だから、きちっとしていかないといけないという考えがあったんです。神様に対する尊敬の気持ちも変わってるんじゃないでしょうか。

垣田 改まって新年というよりも、子ども達は皆でよって行くというか、楽しみで行くようですね。

 それでも構わないですけどね。おそらく若い人の半分くらいは、遊びが目的のようなかんじですね。

皆保険前の支払事情、診察費も節季払い

正木 成田先生のご開業はいつでいらっしゃいますか。

成田 昭和41年に開業して、しばらくしてから地区の理事になりました。協会や府医にはとにかく委員会というのがたくさんあって、掛け持ちで出席して、結果を班長会に報告しないといけないので苦労しましたよ。

垣田 あの頃は医師会活動も凄かったですよ。

正木 私が開業したのもその時期で、班長をしている時に保険医総辞退するって、皆でやってましたね。相当激しく活動していました。昔の方はよりよい保険制度のためにしっかりがんばっていました。

成田 月に1回は班長会とかありましたね。

正木 本当に総辞退するのか賛否とったり大変でしたよ。

成田 もう一つ思い出すのは、「上京老人成人検診委員会」、たしかそういう名前だった。上京東部の柴田長次郎先生などが中心となって上京東部医師会と西陣医師会が主になって検診をやりました。それが今は全市的な市民検診になりました。昭和50年頃から10年くらいで、最後は学際研究所に引き継いだわけです。京都市の検診の始まりだったのではないかという気がします。

垣田 あれは本にもなりましたから、すごい仕事をされていますよね。

正木 皆保険ができてから、診察費の支払いもよくなりましたけれど、戦前はなかなか支払いできない方も多かったと聞いています。

垣田 昭和45年頃、父がえらく喜んでいた日があったんです。終戦直後の診療費を払えなかった人が、20年経って1万円払いに来はったって。そういうことがあの頃はまだありました。

正木 昭和の初め頃、我々の先代の先生方が開業された頃は、このあたりは田んぼばかりで、西大路通がまだなかった。そういうところに画家の堂本印象さんが家を建てられて、衣笠に有名な絵描きさんが続々と家を建てられて、お弟子さんがそこに住まわれました。そういう方たちの診察の支払いができない方は、お百姓さんですと野菜、絵描きのお弟子さんですと申し訳ないからと自分の描いた絵をもってきて、支払いの代わりになさったりというのがあったみたいです。

垣田 私も小学生の時に今から思えば、暮れにメモを持たされて集金に回らされました。

正木 「節季払い」と言うんですね。盆と暮れにまとめて支払うわけです。大変だったらしいですよ。昔の先生方は。

垣田 たぶん窓口支払い分は全部つけになっていたんですね。

成田 私は23年頃に免許をとって30年ごろまでは舞鶴にいましたけど、農村での往診料が大根とか、そういう時代でね。あの頃は軍医さんが復員してきて、郡部には医者がいっぱいいたのですが、どんどん都会へ行かれました。

正木 このあたりも終戦前はほんの数軒しか開業していなかったので、夜中に何回も起こされて、自動車もないので自転車で往診したそうです。私の母も、冬は布団に入ってやっと足が温もったと思ったらまた呼び出されるから、温まる間もなかったと言っていました。今の若い先生も大変かもしれませんが、昔の先生もしっかりと働いておられたように思います。

成田 確かに昔は往診が多かったですね。

正木 この頃みたいに車で連れてくることもできなかったですからね。

成田 私が開業した頃は、日曜日も診察なさっている方もいました。今は病院で何時間も待たされていることを思ったら、昔の先生方は偉いと思います。

正木 父もそうでした。お正月も午前中休んで昼から診察していました。それは特別だったかもしれませんが。

渡邉 祖父も、肛門科だけなのに日曜日もやっていました。

成田 それこそ医師の意地だと思いますね。この頃は実際できないけれども。

正木 とても足元に及ばないと思います。

垣田 私の父も毎日11時くらいまで診療やっていましたからね。

正木 往診1日十何軒というのもざらだったとのことです。朝の間に何軒か往診して、診察して、午後から医師会の会合に出て帰ってから往診して夜の診察。それが普通だったと聞いています。

成田 立派だと思います。

垣田 頭の下がるお話ですね。

渡邉 まだまだ興味深いエピソードが出てきそうですけれども、時間になりましたので、これで終了させていただきます。ありがとうございました。

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