特別寄稿 「医療事故調」設立への新たな動きについて  PDF

特別寄稿 「医療事故調」設立への新たな動きについて

弁護士 莇 立明

1、経過

 厚生労働省は、今年の2月、2008年6月に同省が公表したいわゆる医療事故調―第三者組織「医療安全調査委員会」設置法(大綱)案について、「そのまま成案になることはないと考えている」と述べ、見直しに着手する考えを示したと新聞は報じている。

 民主党は野党時代の08年6月、各医療機関内に設ける委員会での「院内調査」を原則とする独自案を作成した。

 民主党が政権党となってから、今年2月23日朝日新聞は「厚労省は、今後、両案を比較しながら、原因分析を担う医療版事故調の在り方について慎重に検討を進める構えだ」と報じた。

 ところが、5月12日に至り、医療事故の被害者団体―「患者の視点で医療安全を考える連絡協議会」は、中立・公正な第三者機関たる医療事故調査機関の早期設立を求める要望書を厚労相や民主党に提出した。そして、国会内で医療事故で家族を亡くした遺族ら80人が参加した集会を開き、今年中に法律を成立させてほしいなどと訴えたと、新聞は報じている。

2、現況

 今日、事故調の議論が頓挫したままである理由は、第三者機関たる事故調の設立をめぐって、医療界に「悪質な事例は警察へ通知する」との規定などへの根強い反対論があり、一方、民主党内では刑事責任の追求とは別に、前記のとおり院内での事故調査を優先させる案を公表して、議論を先送りしているやに見られる状況があるからでもある。

 また、5月13日朝日新聞の報ずるところでは、最高裁の統計による医療事故をめぐる提訴件数は04年を境にして減少傾向を示し続けており、また、医療トラブルを話し合いで解決する「医療ADR」が各地の弁護士会などに採り入れられて来て、一定役割が期待されている事情も見られているかも知れない。

 しかし、政権交替も2期目に入り、国会や厚労省内では事故調の具体化に向けた動きは出ていないが、前記国会内集会では共産党などが、「国会内で議論が止まっていることは重大である。病院の内部調査だけでなく公正・中立な第三者機関が必要。前政権時に纏められた法案大綱を土台にして超党派で合意をつくりたい」などと発言しており、今後、被害者団体などの動きが加速され、具体化されて来る可能性が高いと見られる。

3、問題点

 医療事故調は、中立・公正な第三者機関として創立することが必要であるとの点、それを政府機関とするとの点では、厚労省も医師団体、被害者団体も各政党も一致しているやに見られるのであるが、問題は、その設置主体を政府のどこに置くのか、委員構成をどのようにするのか、機関の目的、所管事項は一体、何であるのか(調査と原因分析のみか、調査結果の報告は誰にするのか、その目的、事故の紛争解決も所管に入るのかなど)、そして、所管事項により他関係機関(警察、裁判所など)の権限との調整をどうするのかなど重要な問題が未解決のままである。差し当たり、医師会などが要望するように医療事故死の警察への通知、届け出義務が免除されるのか。

 調査目的、調査事項との関係で、調査委員の中心を誰が担うのか、医療専門家たる医師なのか、それとも法律家や医事評論家、マスコミ関係者などによるいわゆる「学識経験者」なのか。調査事項の専門性との関係で重要な問題であろう。

 民主党案が、各医療機関内に設ける委員会での「院内調査」を原則とする独自案を作成した理由もわかるのである。前記朝日新聞によると、厚労省は、今年度に5学会が設立した「日本医療安全調査機構」の事故調査に、民主党案にある院内調査委員会の役割を採り入れて見直してもらう検討を開始。患者側や医療側と改めて議論することになりそうだと報じている。これは、結局、本来の期待される医療事故調査とは、当該医療の専門に関わる医師が、専門的知識と経験を駆使して事故発生に至る医学的経過、機序を調査・解明することが基本であり、見方によっては全てである。「公正」「中立」の名目で調査委員となった法律家や医事評論家、マスコミ関係者などによるいわゆる「学識経験者」は、調査自体に対しては、果たす役割はなく、調査結果に対する法的・規範的評価の部分で法律家が、その役割を担い、「社会常識」「一般常識」の面で医事評論家、マスコミ関係者などが、その役割を果たすことが期待されているが、調査そのものにおいては、付随的な役割が期待されるだけである。そこらの役割分担が、調査主体の間で、明確に区分されないと、目的に沿った調査の実施が期し難いこととなる。各医療機関における「院内調査」は、おのずと、そのような役割分担で実施されているものであり、その方式が参考にされるべきは当然であろう。

4、樋口範雄教授の論文

 ここで、2009年〜2010年にかけて10回にわたり日本医師会に設置された「医療事故における責任問題検討委員会」の座長を勤めた東京大学法学部樋口範雄教授の意見を掲げる(ジュリスト2010・3・15日発行No.1396号・論文「医療安全と法の役割」)。

 樋口範雄教授のこの論文は、最近のもので、前記委員会の座長としての経験を踏まえた極めて実際的、現実的な意見として、今後の医療事故調の在り方の指針を検討する上において、傾聴すべきものと考える。ちなみに、「ジュリスト」は、法律関係の権威ある代表的雑誌である。

 同教授は、08年6月厚労省が公表した前記医療事故調―すなわち「医療安全調査委員会」設置法(大綱)案は、「明らかに医療事故に対する従来の制裁型の対処の限界を認め、支援型に踏み出そうとするものだった」とされる。

 その特色を、9項に及んで指摘された。注目される特色として、(1)〜(3)の事項―すなわち、設置される中央委員会と地方委員会は、医療事故の真相究明と再発防止策の策定を行う。医療安全の確保のための仕組みであり、関係者の責任追及を目的としない(第1、12)。委員会に独立した地位を与え、専門家中心の独立した判断を確保する(第5)。委員は医療者を中心とする。法律家、医療を受ける立場にある者(患者代表)が入る(第7)。医療事故調査の目的は医療事故死などに関する事実を認定し、これについて必要な分析を行い、事故死などの原因を究明し、もって医療事故の防止を図ることを旨として行われるものとする。委員会は、医療関係者の責任追及が目的ではなく、医療関係者の責任については、委員会の専門的判断を尊重する仕組みとする(第12の1)。

 (8)の事項、調査の過程で、医療専門家を中心とする地方委員会が、業務上過失致死罪に該ると判断する場合は、警察へ通知する(第25)。ただし、標準的な医療から著しく逸脱した医療に起因する死亡などに限る。(9)医師法21条を改正して、事故当事者の医師は、管理者に報告すれば警察への届け出義務はない(第32、33)。

 これに対して、医師側から強い反対があり、医療事故後直ちに刑事責任追及に繋げないための配慮は見られるが、調査委からの警察への通知の道が開かれている以上、制裁型の従来のシステムを脱していない。

5、指針と展望

 樋口教授のこの意見は、極めて実際的な現実を踏まえた意見である。この意見を医療事故調の今後の在り方を構想するに際しての指針とすべきものと、私は考える。

 同教授は、我が国医療事故への今後の対応策につき、事故被害者の救済、医療安全の確立を目指しつつ、現場医療における医療萎縮を招かないための方策を如何にして構築するか、極めて大事な観点であると指摘され、将来への展望も描くことを希望されている。

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