特別寄稿 「イレッサ」判決を受けて  PDF

特別寄稿 「イレッサ」判決を受けて

弁護士 莇 立明

 がん治療薬「イレッサ」の副作用で間質性肺炎になったとして、患者や遺族が国と輸入販売元を訴えた訴訟の判決が、2月25日大阪地裁であった。

 国の責任は認めず、販売元ア社に対してのみ、2002(平成14)年7月のイレッサの輸入承認当時、製造物責任法上のいわゆる指示・警告上の欠陥があったと認められるとして、当時服用した患者に限り慰謝料請求を認めた。

 だが、同年10月、国の指導を受けて販売元ア社が「緊急安全性情報」を出した以降の服用者については、指示・警告上の欠陥がなかったというほかはないとして請求を認めなかった。この判決によれば、今後、同年10月以降の服用者については、販売元ア社に対しても、新たに訴訟提起できる可能性は難しくなったと考えられる。

 判決は、販売元ア社の責任について、イレッサは、同年7月当時、患者が自宅でも服用可能な経口薬であり、医療現場の医師等も「分子標的治療薬」としての理解が十分でなく、肺がん化学療法についても十分な知識と経験を有しない医師がイレッサを使用することが予想された。そのために副作用に関する警戒なしに使用を広められる危険性があり、また、同薬との関連性が否定できない間質性肺炎が、致死的な転帰をたどる可能性もあった。

 そこで医療機関向け説明書(添付文書)の最初に重大な副作用欄として、間質性肺炎を記載すべきであり、致死的転帰をたどる可能性については、警告欄に記載して注意喚起をすべきであった。それが欠けていたとして、当時のイレッサには、製造物責任法上の指示・警告上の欠陥があったと判示したのである。

 しかし、同年10月15日添付文書が改定され、重大な副作用欄の最初に急性肺障害、間質性肺炎が記載され、併せて、同日医療関係者に対して、これらについての「緊急安全情報」が配布された。これらの措置により、現場の医師等にはイレッサによる間質性肺炎の危険性を誤解なく認識可能となったとして、同日当時以降のイレッサには、指示・警告上の欠陥があったということはできないとし、以降の患者の請求を棄却したのである。

 判決は、添付文書の冒頭の「警告欄」では足りず、「重大な副作用」欄に危険性を書くべきで、それにより医師や患者への注意喚起を促すべきだ。それを怠ったとして指示・警告の欠陥の責任を認めたものである。

 しかし、輸入当時のイレッサ自体の有用性は認められるとして不法行為責任は前提を欠いており、認めないとしたのである。

 従って、販売開始前後の販売元の民法上の過失責任は問題にする余地がないとして、その後の患者の請求を棄却していることに注意する必要がある。

 一方、厚生労働省に対しては、添付文書への重大副作用欄への記載という行政指導に止めたのは万全ではなかったが、間質性肺炎の警告がないままに国民に広く使用されることについて、国がそこまで「高度の蓋然性を以って」認識できたとは言えない。その理由としては、ア社が承認審査の過程で、副作用として間質性肺炎を添付文書に記載することに消極的態度を示し、また、添付文書の記載に関する行政指導は薬事法令と通達との適合性のみを判断する方法をとるべきとの考えが政府内にあって、当時には、イレッサの副作用と危険性について万全な規制権限を行使し得なかった。そのことは許容限度を逸脱したものとは言えず、著しく合理性を欠いたものとも言えないとして、国の責任を認めなかったのである。

 今朝(2月26日)の新聞各紙は一斉に「薬事行政に反省を求めたものだ」と報じているが、どのような反省を具体的に求めたというのか、その内容が明確ではない。新聞各紙の突っ込み方は極めて不十分である。

 一般に、抗がん剤の副作用が問題とされていることはいまや常識とも言えよう。がんという不可逆的な病に対する一定有効な薬剤としての抗がん剤は、医療界でも広く認知されており、その使用禁止を求める声はあまり聞かれない。医師や患者・家族など関係者の判断、選択の問題として一般的なコンセンサスがあると思われる状況にあると言えよう。

 しかし、現下の医療界においては進歩する薬剤開発、関係者の使用要求により、抗がん剤に限らず重篤な疾病に対する有効性のある薬剤については、重大な副作用があっても、それを使用することは、患者の要求にも適っており必要悪のようにすら見える。高血圧による強度の頭痛に苦しむ患者に副作用を承知で投与せざるを得ない降圧剤ぺルジピンの静脈注射、痛みに苦しむリウマチ患者に「重篤な副作用で致命的な経過をたどることがある」と添付文書の冒頭に「警告」の記載があっても、敢えて投与せざるをえない抗リウマチ剤リウマトレックスなど、その投与後の結果が悪いとして、医療過誤訴訟となる例があることは筆者の経験するところである。

 しかし、抗がん剤の副作用が、訴訟の場で問題となることは少なかった。それが、がんという疾病の不可逆的性質によるものか、薬剤の副作用によるものか、不明なままに暗黙に渾然一体のものとして、見過ごされて来たことも一因だと思う。

 しかし、今度の判決を見ても、国や行政に承認審査や販売開始の段階で、患者にとって具体的に真に危険な薬剤をチェックする機能の変化、進歩を期待することは、極めて困難であり、迂遠でもあることを改めて知るのである。もっと知恵を絞る必要があろう。当面、国民は、医療のあらゆる面において、賢い患者を目指さねばならないであろう。

 それにしても国の国家賠償法上の責任を認めなかった根拠についてである。

 国において、間質性肺炎に関する警戒がないまま広く使用されることを認識できる「高度の蓋然性」がなかったとは何と苦しい判示であろう。裁判所は医師・医療機関に対しては、結果に対する責任を認めるに、高度の蓋然性がなくとも「相当程度の可能性」の認識で足りるとする融通無碍な判断を時に行って来ている。国賠法解釈とはいえ、故意・過失の認識の問題は抽象化・客観化され、具体的過失の立証の困難さは解消されるべきことは学説などの通説でもあろう。

 次に製造元ア社の態度も不可解である。被害を招いた責任は、薬の特性を理解しないまま処方した医師にあると主張して来た点である。

 「薬の特性を理解しない医師」が多いのであれば、販売元のア社は、繰り返し、あらゆる方法を講じて副作用・危険性の情報を薬を使用する可能性のある医療機関や医師に提供すべき義務があると考える。これは、人の生命・健康に危険性を及ぼす虞れのある薬の製造販売者として、当然の責務ではないだろうか。徹底できないのであれば、販売を自粛すべきであろう。実際、現実には、製薬会社・販売元などのそのような危険性などの情報提供は全く不十分である。

 他方、医師達は、患者の病状、苦しみを前にして、少しでも苦痛の軽減をと考え、投薬・処置に走らざるを得ない。マスコミは、「医師が正しい知識を持った上、患者に正面から向き合え」と矛先を医師に向けているが(2・26朝日社説)、わらにもすがる気持ちの患者を前にするのは現場の医師達である。製薬会社でも行政でもマスコミでもない。

 患者・家族は、投薬・処置などしなかった場合に医師・病院は何もしてくれなかった、患者を見限ったと非難することもある。投薬して悪い結果に終わった時に患者から非難され、責任を問われるのは現場の医師たちである。

 イレッサ判決は多くの問題を負ったままである。

(2011・2・26)

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