満洲からの引揚 満洲生まれのつぶやき(11)

満洲からの引揚 満洲生まれからのつぶやき(11)

木村 敏之(宇治久世)

ソ連兵の帰国後

 ソ連兵が帰国した後、社宅にそれぞれが居留することは危険であるということで、一カ所に集まることになり病院内の一隅に全員が集まった。それを病院長屋と言って、囲碁、将棋をローソクの光の下で楽しんだり、ソ連兵からもらった米で餅つきをしたりと年末気分を楽しむこともできたというが驚きである。敗戦後間もないときに満洲の日本人で餅つきをしたなどは信じられない。この頃になると八路軍(パーロ軍)が突然現れるようになったが、同じ中国人なのに国府系の警察とは仲が悪いように感じていたという。ある日八路軍に病人がでた時、彼らは往診料を払うと申し出があり、また彼らの軍規も厳正で外出もおおむね禁止、移動してきても電球、茶碗、皿など徴発したあとでも帰るときには持ち主に返していったぐらいである。以前には日本軍にひどい扱いを受けていた人たちとは考えられないと感心されている。私も似た話を父から聞いたことがある。

 ある日、八路軍の隊長から院長と小生の父が二人招待され、食事をご馳走になったときのこと、かつて日本人が満洲で行った政治は決して悪くはなかったが満洲人達に衣料の配給をしてくれなかったのには困ったと言っていたようだ。さらに院長の大変なご苦労により、病院がソ連兵に壊されずに、ほとんど無傷で中国側へ渡されたことに対しても、重慶から来た代表が感謝したなかで病院接収が行われたことは、今振り返って日本で起こっている病院崩壊の見られる社会と比べても、当時しっかりと社会的共通資本との認識があったといえよう。N院長は以前の部下である中国人医師が院長になったことで病院には出勤しなかったらしい。立場の逆転は日本が負けたのであるからしょうがないとはいえ、ご本人の心境は大変複雑であったろう。

 そのような中、引揚者や残留者の中で語り継がれていることは戦いで敗れたにもかかわらず、勝者である軍規正しい八路軍兵士達を評価した旧日本軍の兵隊も多かったということである。ソ連参戦後、さっさと帰国した日本軍人の関東軍幹部と比べ、ソ連軍の管理下におかれた兵隊たちはシベリヤ行きを何とか逃れるためにも八路軍にすがるほかなかったのであろう。極寒の地で多くの日本人や兵隊が犠牲となった責任はこの一点を見ても敗走した関東軍幹部にあるといえるだろうが、あまりに無責任で情けないといわざるを得ない。日本敗戦当時、中国には358万人もの日本人があちらこちらに散らばっており、それら日本人の中から中国人民解放軍に協力し新中国の建設に貢献する人々が現れたのも自然な成り行きであろう。中国残留孤児と人民解放軍日本人兵士はともに日中にかかる国際的架け橋の生き証人とでもいえようか。(参考:古川万太郎著『凍てつく大地の歌−人民解放軍日本人兵士たち−』三省堂 1984)

 少々寄り道をしたが、次回より小生の記述はいよいよ難民の集団移動という名の本国への“引揚”が始まる。歴史の生き証人として大地に放り出された残留孤児の皆様には申し訳ないが、この我々の引揚も決して楽なものではなかったのは言うまでもない。

<表>
人民解放軍の幹部のランク(中国共産党)

 これは階級でなく、部隊の指揮・命令に関する責任者としての位置付けがなされているにすぎず、別図の如く、旧日本軍の階級と対比させてみると、

人民解放軍 旧日本軍 旧日本軍の階級
排(長) 小隊(長) 少尉
連(長) 中隊(長) 中・大尉
営(長) 大隊(長) 少・中佐
団(長) 連隊(長) 大佐
旅(長) 旅団(長) 少将
師(長) 師団(長) 中・大将

 「階級なき軍隊」の規律
「三大規律八項注意」の基本的姿勢

三大規律
1.いっさいの行動は指揮に従う
1.大衆からは針一本・糸一本でもとらない
1.捕獲品はすべて公のものとする
八項注意
1.話をするときはおだやかに
1.売買は公平に
1.借りたものは必ず返す
1.こわしたものは必ず弁償する
1.人をなぐったりののしったりしない
1.農作物を荒らさない
1.婦人にふざけない
1.捕虜を虐待しない

古川万太郎著『凍てつく大地の歌』(三省堂1984)より

【京都保険医新聞第2650号_2008年8月4日_6面】

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