東日本大震災 被災者支援に赴いて  PDF

東日本大震災 被災者支援に赴いて

 東日本大震災被災地支援のため協会は、5月1日から5日まで、医師1人と事務局2人を青森経由で岩手県の大槌町など被災地に派遣した。現地で見聞きした課題など数回にわたり掲載する。

 5月1日は、伊丹空港から空路、青森へ。青森県保険医協会がコーディネートする被災地の方々のリフレッシュを目的にした温泉施設への受入れ活動に協力。

 翌2日は、自動車で岩手県三陸沖の被災地入り。山田町から大槌町へ。避難所であり、臨時の診療所が開設されている岩手県立大槌高等学校へ。青森県医師会からJMATとして、診療にあたっておられる青森協会の引地副会長を訪問し、激励と意見交換を行った。

 その後、宮古市の被災地を通過し、田老地区へ到着。次に、岩手県の被災地としては最北端に位置する野田村へ到着。壊滅的な被害状況の中、やや山の手に位置する役場を訪問した。同村のたった1人の開業医である押川医師は自らも被災しつつも、役場内に臨時診療所を設け、医療活動に従事しており、青森協会がそれを支援している。当日、押川医師は不在であったが、医薬品類などを寄附。また、Tシャツや化粧品等の物資を役場職員に手渡した。役場からは村長が対応し、短時間だが意見交換した。

 3日からは青森に戻り、避難者への医療支援や、観光地への引率ボランティアに従事。大槌町に続き、陸前高田市、釜石市からの被災者の健康相談にあたった、診察・投薬は合計22人を数えた。

 なおこれ以降の現地支援は、保団連を通じて事務局員を派遣している。

旧田老町にて

 協会は5月1日より5日まで青森協会(大竹会長)よりの要請を受ける形で支援チームを派遣した。青森協会が行う活動を助け、各地の避難所からの方の健康相談、診療を受け持つのが役目であった。5日間で20人を超す方々が訪れ、手持ちの薬品で対応した。

 発生より50日が過ぎ避難所では食料、日用品は発生直後に比べれば改善され、あふれかえっていた避難民も徐々にその数が減っていっていると言われる。それでも釜石、陸前高田ではまだ布団がいきわたらず、青森での久しぶりの畳、布団で熟睡できたと口々に言われる。

 淡々と身体のことを述べていた人が、会話の途中で実は娘を亡くしましてと言われた時にはおもわず手が止まってしまった。

 事務局員は東へ西へ大忙しであった。

 2日は盛岡より沿岸部の大槌町に達し、県立大槌高等学校に設営されている避難所で4月27日から医療活動されている青森協会・引地副会長を訪問、その後山田町、宮古市、野田村を経て久慈町に夕方到着した。宮古市の被害は甚大でまともに残っている建物はなく、コンクリート製の電柱がことごとく根元から倒れ電線がむき出しになっている。死亡、行方不明者1815人を数える。

 宮古市の北の田老地区は2005年6月宮古市と合併し、人口4570人。この地区は1859(明治29)年三陸地震の津波により1859人が、また1933(昭和8)年の昭和三陸津波で911人が命を奪われた。このため半世紀近くをかけ海寄りと陸寄りの10型の二重の構造を持つ長さ2・4km、高さ10mの防潮堤を築き、1960(昭和35)年チリ地震による大津波の襲来も防潮堤が被害を皆無にとどめたこともあり、住民は「日本一の防潮堤」と頼りにしていたという。

 今回の巨大津波は北側海寄りの防潮堤を500mにわたって破壊し、20mを超える大波は堤防を乗り越え市街地に押し寄せ家屋の98%を全半壊させた。津波による水没地域は5kmに達したという。今震災では死者115人、不明者72人の被害を受けた。自衛隊の活動により車の通行は容易であったが、残ったがれきはほとんどが原形をとどめてはいない。堤防への階段の頑丈な手すりが左右に押し曲げられている。幅3mの堤防の上に立つと海からの風で帽子が飛ばされそうになる。岩手県全域のこの強風のため天皇の盛岡訪問が中止となったということを途中知った。堤防の4分の3は無傷のように見えるが、海側の堤防は大きく崩れ、田老川の水門も大きく破壊されている。堤防から全景を見渡すと、高台には適した住宅地は少なく、河口に広がり密集した住宅街は土台を残すだけの広々とした廃墟になっている。発生直後の倒壊家屋の積み重なった惨状と比べ、今は区画ごとにがれきは整理され、更地となっている区域も見られる。見渡す限り、灰色一色の単調な風景を見せている。色彩の乏しい一角にふと一瞬、鮮やかな赤が眼の端をよぎった。堤防を降り、駆け寄ってみるとそれは下の結び目がほぐれ棒に巻きついている日章旗だった。砂埃を勢いよく舞い上げる突風、日の丸の赤がパンと張った。残骸、瓦礫の中で、それはくっきりと存在を示した。誰が立てたのかは知る由もないが、夢中で撮った。米国の9・11事件の際の世界貿易ビル倒壊現場では米国国旗が場違いの印象ではなかった。この大災害の中、国旗を持ち出してみて、右とか左の議論でもなかろう。日本の心を一つにと言うのはあの現場での国旗が主張しているように感じた。我が家も含め普通の家庭では記念日でも国旗を掲げることをしない風潮ではあるが、あのがれきの中での日の丸の鮮やかな赤が思い出されてならないのである。

(関 浩)

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