中野信夫名誉理事長追悼座談会 中野先生と協会史を語る

中野信夫名誉理事長追悼座談会 中野先生と協会史を語る

 協会名誉理事長の中野信夫先生が1月16日、逝去された。この9月には生誕100年となる。その足跡は、京都府保険医協会の創設、全国保険医団体連合会創設への貢献はもとより、京都の医療・日本の医療史にも大きな影響を及ぼすものといえよう。そこで、中野先生と時代をともにされたOB4人の方に集まっていただき、主に先生が協会理事長として活躍された頃の協会の歴史の一端を語っていただいた。

中野信夫先生
中野信夫先生
1910年9月1日―2010年1月16日。49年に協会設立、理事に、52年より常任理事、56年より副理事長、62年1月から81年5月まで理事長、81年より顧問、83年より名誉理事長。69年に保団連設立、初代会長、83年より名誉会長

出席者(協会役員への就任順)

籏持  崇 氏

竹内 周徳 氏

北小路博央 氏

山田 亮三 氏

関  浩 理事長

進行

垣田さち子 副理事長

京都府保険医協会の略史
(中野先生が理事長を務めた81年まで)

49年1月 京都医療社会化連盟懇談会(責任者・中野信夫)を開き、社会保険制度の危機の問題の重要性を討論
49年6月 京都府保険医協会設立総会を旧府医師会館で開催
49年9月 初代理事長に富井清氏
50年12月 「京都保険医新聞」が発刊
53年3月 第1回社会保険研究会
53年7月 総会で竹下府保険課長の不信任決議→54年2月に更迭
55年 融資制度発足
56年6月 健保改悪法案廃案、総辞退回避
61年7月 三桁の会が中西で初開催→各地へ
62年 富井氏が府医会長に、中野氏が協会理事長に
62年6月 綾部で地域差撤廃大会
65年8月 薬価収載で佐藤首相に直訴
66年8月 府医師会館が移転(丸太町智恵光院→御前松原下ル)
67年2月 富井府医会長が京都市長に
68年 医賠責・保険医年金発足
69年1月 保団連設立、初代会長に中野氏
71年7月 保険医総辞退に突入
73年6月 第1回コミュニケーション委員会
75年12月 不当疑義解釈追放委員会を設置
77年 全国に先駆け審査委員の氏名を公表
78年4月 府知事選で杉村氏敗れ林田氏が当選
79年8月 「30年史」を上梓
80年秋 府医会長選で有馬氏が長島氏を破り当選
81年5月 中野理事長が退任→木村輝夫氏が理事長に

垣田さち子 副理事長
垣田さち子 副理事長
1948年生まれ。上京区で内科診療所開業。01年より理事、03年より副理事長

 垣田 私は家が近かったので、個人的には存じ上げていましたけれど、保険医運動での先生は知りません。先日、保団連理事会で会長からご挨拶があって、先生の偉大な点を改めて認識しました。ここできちっとその時代の歴史を残しておかないといけないと思い、先生方のお話を伺うのを楽しみにして参りました。

保険医に役立つことを

籏持 崇 氏
籏持 崇 氏
1925年生まれ。左京区で外科診療所開業。63年より理事、67年6月より77年5月まで副理事長

 籏持 私が中野先生を理事・副理事長として補佐したのは1963年から14年間でした。初めてお会いした頃の中野先生は、若くて雄弁で非常に迫力がありました。京都府医師会代議員会で、先生が質問されますと議長がビビったようなこともありました。

 とかく保険医協会というと、左翼的な保険医の集まりではないか、と言われる方もいますが、私が協会に入ってそういうことを感じたことは一度もありません。一緒に仕事をした新井多聞先生、渡辺剛夫先生、木村輝夫先生も皆、保険医のために何とか役立つことをしたいと、中野先生の指導のもとに一致団結して頑張ってきたと思います。そういう偏見がいまだにみられるのは、非常に残念なことと思います。

富井会長が首相に直訴

 籏持 私は初め保険担当理事を4年間やっておりました。その頃、「外科保険診療便覧」を私が担当して発刊しました。65年、初診料が24点の時分です。以後、隔年で5回改定版を発行しました。非常に喜ばれて感謝されたのを覚えています。

 その頃、特に印象に残っているのは、中野先生は眼科ですので大変関心を持っておられたIDU、角膜ヘルペスに対する特効薬の薬価基準収載問題です。この薬がないと角膜ヘルペスになった人が失明するおそれがあるということで、非常に問題になっていたのですが、厚生省の役人にいくら申し入れても載せてくれない。

 それで府医の代議員会でもそのことが問題になり、当時の富井会長に「佐藤総理大臣と直接面談して、もしも犠牲者がでたらあなたが責任を負うんですね」と言ってみたらどうでしょうと、私が提案しました。富井先生が了承されて実現(65年8月)し、3カ月程で収載されました。

医賠責と保険医年金の発足

 籏持 私は67年からは経営の仕事に移りました。中野先生は常に、保険医のためになることだったら何でも頑張ってやってくれと言われて、その時に考えて始めたのが、医師賠償責任保険と保険医年金です。すでに充実しつつあった融資制度とともに共済制度の柱となったわけです。

 保険医年金をつくる時には、三井生命の幹部たちが東京から協会事務局に何度も来て、討議を重ねて作りあげました。会員に安心して加入してもらうために、新井先生と満口掛け続けたのを覚えています。協会の仕事を辞めてからも、先生方から、加入しておいて助かったという声をずいぶん聞きました。中には子どもを医大に入れられたのは、このお陰だと非常に感謝をされたこともあります。私自身も診療所を建て直す時に非常に助かりました。

不当疑義解釈の撤回を

 籏持 不当疑義解釈追放運動というのも大きな成果をあげた一つです。「保険医である以上は、療養担当規則と点数表は絶対に守らないといけない。だけど一課長の一片の通知は必ずしも守る必要はない、不当なものは撤回させないといかん」、それが中野先生の主張でした。そこで、今でいう事業仕分けのようなことを理事会でやることになりました。5、6人で分担して2、3カ月と期限をきられて、結論を出せと。私は外科と整形外科を指示されました。

 この内容を「社会保険診療提要」に収載したのです。相当に重荷の宿題を持たされて苦労したことを覚えています。未だに忘れられません。

平和と自然を愛す

 籏持 あの頃は、蜷川府知事が絶大な力を持っておりました。蜷川知事はよく医師会にも来られ、中野先生と特に相性も良くて、総辞退の時も委任代行払いで保険医は非常に助かりました。

 個人的なことでは、中野先生は平和主義者で、そしてとても自然を愛された。住まいもケシ山に移られてからは、野菜を作ったり晴耕雨読の生活をしておられました。先生はお花が非常に好きでした。私も花に興味がありましたので、よく花屋でお会いしました。それが特に私の好きな先生の一面でした。

 また、絵を趣味にされていて、私が診療所を新築した時にわざわざ来院され、美しい風景画の額縁をいただきました。

私を決意させた一言

竹内周徳 氏
竹内周徳 氏
1925年生まれ。南区で外科診療所開業。71年より理事、77年より副理事長、87年6月から93年5月まで理事長、現在名誉理事長

 竹内 中野先生の功績については、あまりに大きすぎて到底語りつくせないと思います。端的に言えば、保険医運動と会員に対する日常世話役活動、この二つについて、先生は生涯といってもいいほど情熱を傾けられた。私はその情熱にいたく心を打たれてきました。その中で、私と中野先生とが交わした約束事のようなものがあるのです。

 私が組織部理事になって3〜4年経った頃、ある先輩から「おまえは騙されている。会員に対する仕事は評価するが、協会は共産党のダミーに違いないからやめろ」と言われたのです。こんなに心配してくれるくらいだから、会員の中でよほどのことが言われているのではないかと。あの頃、中野先生は私たちからは近寄り難い存在でしたが、たまたま一人でおられた時に、腹を決めてお話しした。そうしたら先生は「あなたは、保険医協会をどうしたいと思っていますか」と逆に質問されました。私は「政治的に偏らない大衆団体として、個人の思想信条を超えて一致する要求で団結して運動していくような組織をつくっていくべきだと思っていますし、組織担当としてはそうしていきたい」と言ったら、先生は「その意見に諸手を挙げて賛成するから、どうかその考えに基づいて、何でも良かれと思うことはどんどんやってくれ。いかなる結果となろうとも理事長である私が責任をとるから」と。そして、「実は保険医協会をつくる時に、他府県の理事長や会長になる人の中には、そういう思いでつくった人もいるかもしれない、だけど京都は違う、そういうことはしない。大衆団体としていくと宣言したんや」と言われました。「知事選挙などでは、一般の会員からそう見られても仕方がない面があったかもしれないけれど、私はあなたの意見と同じや」と。私の顔を真っ直ぐ見つめての眼差しに、これは先生の本心だと直感しました。

 こんなに情熱溢れる先生に会えることは滅多にあることではないと思い、どれだけのことができるかはわからないけれど、協会の仕事を一生懸命してみようかと、その時に私は初めて決心したのです。

府民の手による町衆選挙

 竹内 中野先生について、私しか知らないと思われることが幾つかあります。

 一つは、78年4月の府知事選挙(以後、「杉村選挙」)に関することです。府民の代表を選ぶのだから府民の手で選挙すべきと、「町衆選挙」と言って政党を抜きにして候補者を選ぶことになりました。協会の歴史の中で、府や市の医療への関与の深さを痛いほど知らされていたので、医療の問題について深く理解のある蜷川府知事を推してきた経緯があります。同じように、理解を示してくれる人ということで、杉村敏正京大教授を候補者に選んだのだと思います。私自身、中野先生からそう聞いて、知事選挙はそうあるべきだと信じました。

 その選挙について、私が書いた代議員会報告書の原稿を、理事会で読みあげたのですが、それを聞きながら隣席で中野先生が涙を流しておられたのです。やはり町衆選挙であったということについて、思いがいっぺんに噴き出てきたのではないでしょうか。この選挙は、「府民の代表は府民の手で」と選んだ候補者へ各政党に支持を呼びかけたのでした。結果として、支持は共産党一党だけだったというのが私たちの認識ですが、逆に共産党が推薦した候補を府医と協会が応援していると解されてしまい、会員からかなりの批判がおきました。中野先生の心の中はそのようなことではなかったのだと、あの涙で私は確信しました。

保団連に関すること

 竹内 もう一つは、保団連に関することです。当時の事務局長はものすごく能力があるが、政党の影響を強くうけた人物でした。それについて中野先生に、なぜそのような人物を事務局長に選んだのかと尋ねたことがあります。先生は「東京に保団連をつくったけれど、事務局も決まらず、どうしたらいいか困っていた時に、彼を呼んできてくれた人がいた。やらせてみるとすごく有能な人で、自分としてはコントロールできると思っていた。ところが、毎日東京に詰めていくわけにもいかないので、なかなかできなかったんや」と言われました。それが本音だったのだと思います。

 私はその時から、保団連の構造改革を言いだしたけれど、力不足で思ったようにはいきませんでした。京都こそが、それを続けてほしいと、今も思っています。

総辞退の危機乗り越え

 竹内 71年の保険医総辞退は、日医・武見会長が、健康保険法の抜本改善の遅れや診療報酬が財政面だけに基準がおかれている不合理性等を掲げて、7月1日から全国一斉に突入しました。ところが、税対策についてよく検討する時間がなく、後に税問題を巡って地区から協会に不満の声が爆発的におきたのです。

 籏持 短期で収まる見通しで、京都は府知事の意向もあり、委任代行払いで強行しました。それに引き込まれたという不満があったのですよ。

 山田 1カ月間の報酬を自由診療と認めて税の対象とするという税務署に対し、知事の委任代行だから保険扱いだということで大闘争になった、その問題ですね。

 北小路 あの時は府医も協会もスタンスは一緒でしたので、府医が税務対策から引いてしまったのなら、協会がなぜ対応してくれないんだという不満です。結局、各地区と税務署が話し合って解決するようにということになったのです。

 竹内 この時は協会の最大の危機でした。組織部担当の私と勝見寛二先生で、この不信感はどんなことをしても払拭しなければいけないと取り組みました。その対策として、コミュニケーション委員会や地区懇談会ができたのです。通り一遍に不満を聞くだけでは、不信感の払拭はできません。会員の意見を吸い上げ、大事なことから施策に反映させるよう速やかに実行していく以外に、信頼回復の手立てはないと当時の中野理事長は、特にコミュニケーション委員会で出された意見、要望などの実施方を、全理事に強く要望されました。担当の組織部に責任が重くのしかかり、私は昨日のことのように思い起こします。コミュニケーション委員会は、協会のやっていることを伝える場所ではなく、会員の意見を吸い上げる場であることの再認識を、現理事さんにもお願いしたいと思います。

 回を重ねるうちに、この委員会がいちばんおもしろいという声があがるくらいになって、当初の目的を達することができたのではないかと思いました。

 籏持 幸い協会には、市川達男という理事がおられた。府医の代議員会議長もされた一言居士で、歯に衣着せず直言されるので有名でした。指導力があり、委員会でもリードしてくれて、非常に助かったことが印象に残っています。

保険医新聞巡る思い出

北小路博央 氏
北小路博央 氏
1928年生まれ。北区で外科診療所開業。72年より理事、83年より副理事長、91年6月から97年5月まで監事

 北小路 私は72年に理事になり、新聞部担当になったのですが、理事会の真向かいの席が中野理事長で、とても恐かった。非常にはっきりものを言われますので、1年目はこんな怖いとこかなわんなと思いました。その時の新聞部キャップが片桐学先生で、しょっちゅう新聞のことで中野先生と喧嘩されていましたが、その頃の私は何も言えなかったです。私が入って1年くらいして片桐先生が亡くなり、長村先生も辞められ、残った私がキャップになったわけです。

 保険医新聞については、同級生からいろいろ言われました。「あんなもん誰が読むんや、おもろいとこがあるかい」と。これではいかん、「おもしろい」「ためになる」「次号が読みたい」、この3つをテーマに新聞づくりをしないといけないとしきりに理事会で言いました。理事の中には、機関紙は、協会の理念をちゃんと会員に知らせるのが役割だと言う人が何人かいました。ところが、中野先生は私の意見に、「そや、その通りや」と聞いてくれました。

 しばらくして、私も調子にのって銷夏号でヌードを出しましょうと理事会で言ったのです。そうしたら中野理事長が「今、何とおっしゃいました? もう一回言って下さい。何で保険医新聞にヌードですか」ときたわけですよ。「しまった」と思ったけれど、引くに引けずに、「山や海の写真と芸術的なヌードとどこが違いますか」と。その頃には、中野先生と話ができるようになっていたのです。新井先生が「おもろいやないですか、新聞部がそうまで言うんやから1回お手並みを拝見しましょうや」と笑って言われた。中野先生は、だめだとは言わず、横を向いてしまわれた。「よし、やったろ」と思って、日野豪先生の芸術的な写真を出しました。その後、理事会の席ではないけれども、中野先生が私に「あれよかったですなあ」と耳元で囁かれた。この人は度量の大きな人だと思いました。

 私は保団連で4年ずっと新聞を担当しました。後の2年が新聞部長です。当時の保団連新聞も京都の新聞に輪をかけたようにおもしろくない新聞で、部長になった時に編集会議で、「保団連の新聞はほとんど事務局が書いて、理事は主張くらいしか書いていない。こんな新聞ではあかん」言うてね。そしたらものすごく反発があって、しまいに「京都でやっていることを保団連に持ち込まないで下さい」と、そこまで言われました。京都の新聞の連載みたいな楽しい記事を載せなあかんて言うたけれど、そういう話は全く通りませんでした。

30年史編纂の思い出

 北小路 「30年史」の出版は、本当に大変な仕事でした。ほとんど小井(いざらい)事務局長(当時)の力といってもいいでしょう。新聞部が言ってもきかれないけれど、あの人が言うと皆、きかずにはいられませんでした。

 そして、編集会議をやるたびにどんどん話が膨らむんですよ。費用のこともあるし、いつまでも終わらんのやないかと中野先生に申し上げました。中野先生は「どんなにお金がかかってもいい。どんなに大きなものになってもいいので、しっかりやって下さい」と言われた。それであれだけのものができたのです。中野先生の度量と小井事務局長の事務的能力、によるものだと思います。あの時、新聞の足跡を書けと言われて私書いたのですが、1号からあの時までの新聞を全部読みました。あれだけは我ながらよくやったと思いますが、非常に勉強になりました。

 竹内 協会の30年の歴史というのは、大きく言えば厚生官僚との闘いでした。保険や税や診療報酬やといっぱいある。「30年史」の一番の特徴は全理事が執筆したこと。これは真似のできないことです。書くには調べないといけないので、先輩たちがどういうことをしてきたのかを具体的に知ることができて、大変ためになりました。どれを残すかについては、皆さん大変苦労されました。今でも貴重な資料で参考になると思います。

卓越した着眼と実行力

山田 亮三 氏
山田 亮三 氏
1936年生まれ。中野眼科四条分院長。87年より理事、89年より副理事長、93年6月から01年5月まで理事長、現在名誉理事長

 山田 私は中野眼科で診療に携わってきましたので、皆さんにはあまり知られていないのではないかと思われる面について、お話したいと思います。

 今でも印象に残っていることの一つは、昭和31年といいますから中野先生は協会では副理事長の時代ですが、京都におけるコンタクトレンズ普及の開拓者と言っていい仕事をされました。コンタクトレンズが眼鏡にかわる第二の矯正手段として非常に有効で、近視だけではなく不整乱視や円錐角膜などの視力矯正に卓効を奏したので、出身大学の医局の中で誰かやる者がいないかということになり、同窓生の中で中野先生が推されて、始めたということのようです。当時は、異物を目に入れるということに対して、眼科医からも反対がありましたが、先生は効果の方を評価されて取り組まれました。

 当時は、レンズをメーカーにオーダーしてから届くまでに3週間程かかっていました。そこで初期投資をして、黒目のカーブと度数を縦軸と横軸とする大きな表を作り、需要の頻度の高さでプロットして、在庫表を作ったのです。それに基づいて在庫しておけばすぐに渡せます。先生は「即座に」が非常に好きで、即日渡しが患者さんの利便性で高い評価を得ました。それで断トツのクリニックになっていきました。その手腕は伝説的になっています。例えば、あるメーカーと提携をして先生専用ラインを作らせる、というところまで踏み込んだこともされました。

 これで、京都におけるコンタクトレンズの普及が急速に進んでいきました。

感染症対策で自動ドア

 山田 第二は、まだ感染症が猛威を振っていた頃、流行性の角結膜炎というウイルス性の疾患が猖獗を極めていました。通院患者さんの半分以上がそれという時代でした。先生は伝染する媒体を調査し、診療所のドアノブがそれだということを早くから見極めておられました。

 昭和30年代、まだ自動ドアがなかった頃です。ところが先生は、すぐに設計事務所の建築士に「何としても自動ドアを作りなさい」と依頼されました。その時の根拠が、「電車は運転士が操作したらドアが動く、建物でもできないはずはない」と。その建築士さんがある会社に駆け込んで、自動ドアを実用化しました。初めは圧力式で、マットにのると開くのですが、子どもでは開かないなど、いろんな問題を全部クリアしていって、それで院内感染がなくなりました。私が中野眼科に入った頃には、全て自動ドアがとりつけてありました。そんなことも自分で着眼して解決していく、すごい実行力ですね。

 第三に、あれだけ忙しい生活をしていて、どうして診療を維持しているのか、誰もが不思議だったと思います。先生は自分の忙しさをよく承知した上で、それをどう補うかの手段をきちっと考えていくということでも卓越していたのです。

 それは、土曜日の午後に、府立医大のある先生が診療に来られるようにして、重症な患者や、自分たちでは解決できない患者さんを皆そこに回すわけです。診療の内容は本当に高く、この先生の影の力は大きかったと思います。私たちも一緒に勉強させてもらって一種の医局のようなものでした。そこでの症例の積み上げが、この先生が眼科書を出版される際の資料になったと言われています。

患者との関係を重視

 山田 さらにもう一つ、先生は37年に千本丸太町に中野眼科を開業されますが、50年には京都医療生活協同組合という法人のかたちにしました。いったん開業していたものを全部拠出して、そこから給料をもらうようにしたのです。

 なぜそうしたのか疑問だったのですが、今にして思えば、こういうことではなかったでしょうか。先生は健康保険制度とそれに裏付けられた開業医医療に身命をかけられました。けれども、先生は医師と患者との関係について、どうも満足していないのですよ。たぶん今の言葉で表現すればインフォームドコンセントを求めておられたと思うのです。医師と患者との関係は、組合員ということでは対等ですから、そういうことではなかったのかと思うのです。

 これは、次の時代の協会の活動に結びついていくと思うのです。今、日本でインフォームドコンセントを言う場合、医事訴訟の裁判の法理として適用されています。療養担当規則にも書かれています。今回の診療報酬改定では明細書の発行が義務付けられましたが、医師と患者の情報格差を埋めるのは、これだけではなかなか解決しないと思います。介護保険におけるケアマネジャーのような役割を担う専門職が医療においても必要になってくるのではないでしょうか。保険制度そのものの充実と合わせてインフォームドコンセントの問題に取り組まないといけないと思っています。

 中野先生は常に次を見据えた仕事をなさっていて、今の私たちにとっても示唆するところが大きな展望を持って生涯を歩まれてきたと、今しみじみと受け止めているところです。本当に中野先生の大きな存在を感じさせられています。

79年府医会長選挙のこと

 竹内 「杉村選挙」後の79年秋の府医会長選挙のことにもふれておかねばなりません。卯月会をバックに有馬弘毅先生が立候補されて、長島三郎会長と争うことになりました。

 その時、協会の連絡責任者が私、府医の連絡責任者が中本毅先生で、理事会などに報告する役割をしていました。選挙の数日前に二人で票読みをしていて、A会員では長島先生が勝っているが、勤務医の動向が全然分からない。結局、八十数票差で長島先生が敗れました。

 卯月会の主張や批判には、思い当たることや、こちらが反省しなければならない点がかなりありました。それについて、これからは改めるようにと中野先生が非常に厳しく言われていました。長島先生も、当選した暁には改めていきますというやりとりをされていました。

 中野先生が81年5月に退任され、理事長に就任した木村輝夫先生は、その時の反省から、協会は選挙で特定候補を支持して会員に押し付けはしない、という方針を打ち出しました。以来、その方針は変わることなくきているわけです。

 「杉村選挙」では、経緯は知り得ませんでしたが、選挙事務長に府医会長の長島先生がなられた。あの時、府医と協会が一緒になって選挙に熱を入れ、オレンジ色のマークや旗を配ったりした。それが、会員からは批判の的になっていました。中でも選挙事務長になったのが一番大きかったと思います。それがいまだに、いわれなき協会へのアカ宣伝に続いているのだと思います。

 竹内 少し以前のことですが、知事選挙などの時、反対側についた会員に、協会が監査、審査をきつくしたというような噂があると聞いて、驚いたことがあるのです。誰がそのようなことを言っているのかわかりませんが、全く事実無根なことで、中野先生は協会創立当時から主治医の主体性を尊重し、制限診療や委縮診療に繋がるような不当な審査、監査に反対する運動を一貫して行ってきました。その結果、京都は“保険天国”とまで言われるようになったのは、会員諸兄の周知通りの事実です。

 私も副理事長になってから、両会懇談会(府医会長、副会長と協会理事長、副理事長の懇談)に出ていましたが、監査の件があれば府医の方から話が出され、中野先生は、何故監査するのか理由を納得いくまで質問され、保険医を抑圧するようなことには、反対姿勢を貫かれてきたのです。前述のような噂事は、事実無根で絶対あり得ないことで、“偽りのささやき”ともいうべきものです。府医が監査を了承したのは、やむを得ない、それなりの事情があったのだと思います。

 籏持 私は保険担当もやっていましたが、協会には監査の決定権は一切ないことでもあるし、選挙で反対したからといってそのようなことをするなど、全くあり得ないことです。府医会長だった長島先生もそんなことをする先生では、決してなかったと断言できます。

協会の発展のために

関 浩 理事長
関 浩 理事長
1946年生まれ。宇治市で内科診療所開業。97年より理事、03年より副理事長、07年6月から理事長

  私は97年に理事になっていますので、中野先生の薫陶を受けたことはありません。もちろん協会の創立、保団連の創立の中心人物として尽力されたということは承知しておりますし、協会在籍の間、日本の医療・社会保障の充実、日本の医療体制のあるべき姿、そして保険医がその目的のために診療において力を発揮できるような体制づくりに、非常にたくさんの業績を残されたことは存じております。全国に京都協会ありとの歴史をつくってこられ、今現在それが受け継がれ、そのような目で見られていることも保団連の会長・理事長会議などに出席して感じます。

 昨年、創立60周年を迎えて、協会の現況を見ますと、会員から寄せられている期待通りに協会活動が行われているかどうかは、未だしの観を持っております。

 これから先、京都協会をしっかり維持・発展させるためには、かなり思い切った改革をやらなければいけないと考えます。根本的なところで財政問題があり、解決しなければならない課題となっています。

 何よりも、全国から評価されている政策提言集団という機能を十分発揮していかなければならないと思っています。協会設立の趣旨である社会保障の充実と、その観点から活動を進めている社会保障基本法の制定、これについて前進させていきたいと思っています。

 そして大衆団体であるべき、ということももちろんでありますし、会員の権利擁護、安定的な医業経営のためのいろんな方策については、最も努力を傾注して汗をかかなければならないと思っております。

<img src="http://www.hokeni.jp/_images/1009/4-2759a.jpg"

ページの先頭へ