【特集2 新人開業医からのメッセージ これからの医療と経営を考える】

【特集2 新人開業医からのメッセージ
これからの医療と経営を考える】

 2004年4月以降開業の会員を対象とした「開業動機に関するアンケート」(08年2月)において、3割の医師がもともと開業するつもりがなかったこと、そしてその多くが勤務医の就労状況等に対して何らかの不満を抱いていたこと、また、開業後も患者数の伸び悩みなどの医業経営や医療保険制度の矛盾に悩む医師の姿が浮き彫りになった。そこで、新人開業医の率直な意見をきき、それら諸々の問題についての対策や対応について共に考える場を設け、会員相互の交流や、地域医療の確保、医業経営の改善等に資するような協会活動を展開するべく、6月22日に「新人開業医とこれからの医療と経営を考えるつどい」を開催した。今特集は、様々な問題に悩みつつ、日々頑張っている新人開業医たちの率直な思いを、先輩開業医に向けてのメッセージとして、当日の参加者のうち9人の方に執筆いただいた。

6月22日に開催した「新人開業医とこれからの医療と経営を考えるつどい」
6月22日に開催した「新人開業医とこれからの医療と経営を考えるつどい」

開業はハイリスクローリターン!?

 西陣の上七軒の地で開業して4度目の夏を迎えることになりました。初めての夏は右も左も判らないような状況でしたが、今はやっと落ち着いてきたところです。

 さて、開業の動機として一番は、自分のスタンスで医療をしたいという思いが強くなったからでした。それまでは中規模の病院に内科医として勤務していましたが、ある程度自由にさせて頂いていたとはいえ、病院の組織の一員であることは否めません。独立してやってみようと思っていたところ、父が脳出血で急死してしまいました。父は小さな会社を経営していたのですが、事業をすることのリスクを強く感じていたようで終始私の開業には反対しておりました。その父が亡くなって、特に反対する身内もいなかったので開業できたという皮肉な結果です。

 余談ですが、「医者になったら、よそ様の最期は看取るけど、親の死に目には会えないよ」と恩師の先生が仰ってましたが、私も例外なく父の臨終には間に合いませんでした。医師というのは、因果な仕事だなと痛感したことを覚えています。他にも諸事情はあったのですが、決していわゆる「立ち去り型サボタージュ」ではありません。

 いざ開業してみて感じることは、場所選びが非常に大切だということです。実は私がやっている場所には以前もやはり内科の医院があったのです。ただし、あまり流行らなかったので閉められたと聞いています。風の便りでは、その後仙台で再度開業して成功されているそうです。京都は開業するのが非常に難しく、京都でうまくやれたら全国のどの地でもやっていけるようにも聞いておりましたが、全くそのとおりでしょうか。私の場合、『つぶれたラーメン屋さんの後にまた別のラーメン屋さんが入るけどまたつぶれるようなもの』とか『あそこは何やってもあかん場所やし、辞めとき』という忠告もあったのですが、思い切って踏み切りました。

 勤務していた病院の近くなので、経営面では患者さんが最初から来てくれるというメリットはありましたが、逆にそこの場所はその病院の診療圏内で病院の外来部門と競合するというデメリットもあります。ですから長期的に見ると患者さんの増加はあまり望めないということも現実のようです。特に現在の医療崩壊は私のような開業医には問題です。というのは、救急のたらい回しが大きく報道されて、世間一般の風潮として急に病気になったとき、病院にかかってないと救急で診てもらえないという不安から以前にも増して病院指向へ流れています。そうすると、3時間待ってでも病院のほうが安心となるようで、近くにそれなりのしっかりした病院があると正直つらいです。

 以上、取留めもなく思ったことを書きましたが、最後に自転車で往診していると、この季節は炎天下で帽子が汗で塩を吹き、開業医も決して楽ではないと申し添えて筆を置きます。

(西陣・むかい内科クリニック・向井滋彦)

極貧生活よりの開業

 私は数カ月前に開業しました。

 病院勤務医時代は、医局に2年いて、その後は2、3年ごとに各地に転勤の繰り返しでした。

 そのたびに、上がりかけた基本給は下がり、転勤時はボーナスももらえず、引越し代も貯金から出さねばならない状態でした。子どもも小学校にあがり、授業料、習い事代を払えるようになるためには、このままの生活を続けていくわけにはいかないと考え、開業を決意しました。

 ひとつの医院を経営するのは、体力、知力、協調性、スタッフとのコミュニケーションをはかる等、いろいろなことに目を配る必要があり、毎日が勉強です。

 開業にあたり、近隣の先生方から手厳しいお言葉もいただきましたが、同じ地区医師会の先生方の支えもあり、頑張っていく活力をいただいております。

 また、専門の方より、1にも2にも場所が大事と言われました。3は人柄、4は医師としての腕とのことですので、場所に負けない人柄と、医師としての腕を日々、磨いていきたいと考えております。よろしくお願いいたします。

(B)

医療の専門家として、言うべきことは言わないと

 1年半前に八幡で開業した、となみクリニックの砺波です。

 私は10年前から開業を考えていました。10年もかかったのは、開業適地を探すのに時間がかかったことが1つの理由です。競合のないところが経営的にも良いだろうと思って開業したのですが、よく考えたらそういうところは人口も少なくて……(笑)。

 開業医となった実感を言えば、勤務医時代は年々仕事が増えて大変だった思いがあるのですが、開業医はとにかく雑用が多く経営のことも考えなくてはならないので、勤務医時代より大変なところもあります。

 今は時間をかけて、少しずつこの地域に認められるように一歩一歩やっていこうと思っています。

 ところで、最近、医療崩壊が叫ばれ、連日のようにマスコミで取り上げられていますが、こうなった責任の一端は、我々医者の側にもあると私は思っています。医療の専門家として、医療のいろんな面について責任があり、これからの日本の医療のあり方について積極的に発言していかないといけないと考えます。

 更に医療だけでなく社会のいろんなところがほころび始めているように感じます。社会保障の大事な柱の1つである年金も大変なことになっていることが分かり、超高齢化社会を迎える日本の将来に暗い影を落としています。

 だからこそ社会保障の一翼を担う我々医者がしっかりしなくてはいけない。そんなことも考えながら、これからやっていこうと思っていますので、皆さんよろしくお願いいたします。

(綴喜・となみクリニック・砺波 博一)

病院医療と診療所医療の両方を自分でつなぐ

 近鉄東寺駅を南へ歩いて2分、小さな診療所で肛門科・外科をやっています。

 私は60歳の定年を機に開業しました。耳管開放症で疲れやすいため(横になると楽になる)、常勤医として残れないと悩み、迷い、みんなにはその2年前から冗談めかして退職金で開業するとコウ話していました。

 そんな時、日野原重明先生の文章が目に留まりました。『60歳はサッカーで言えば後半戦の始まりだ。ハーフタイムを経て新たな気持ちでやってみたら?』と。本当はコウではなかったのですが、私にはソウおっしゃったのでした(曲解です。日野原先生すみません)。それで定年を機に、自分の生き方を変えてみようと決意したわけです。

 同時に、今まで診てきた患者さんは、引き続き病院で診ていきたい、お世話になった病院にも貢献したい…との思いも引きずりました。そこで、週に3日は今まで通り病院で外来をし、痔の手術も行います(安全にできます)。診療所の患者さんを病院に紹介し手術をし、診療所外来でフォローする(そううまくはいきませんが)。残り3日半は、くらた医院です。ここでは看護師もおかず、おけず(今は月2日、採血等に来てもらっています)、手術はせず、マイペースで働くということにしました。

 今、開業2年目に入ったところです。病院での患者は1単位30人弱に対し、診療所はその3割です。最近やっと診療所の経営は持ち出しなしになりました。我が家の生活は、年金と病院の給与でやっていけます。

 いわば個人で行う病診連携です。保険医協会でもこんなスタイルを多少取り上げてもらっても良いのではと思います。

 というのも、先日、某国立大学の医学部出身の学長とお話しする機会がありました。その大学の麻酔科医師は16人だそうですが、教授を除いて15人の医師が辞めたそうです。大学が独立行政法人になったので、もっと収入を上げねば…そのためにベッドを空けず、外科系手術を増やし…という結果が麻酔科にしわ寄せとなってのしかかったそうです。もとより薄給の大学医局員、研究もしたいし、学会発表にも興味もあって大学に残っているのです。給料は年収300〜600万円で頑張っていたのですが、プッツンしたのでしょう。で、みんなして非常勤医師になったそうです。これが最良の解決策になるとは思えません。が、同じような話がありました。産婦人科の女性医師で常勤を辞め、非常勤に変わり、むしろうまくいったというのです。

 …ということで? 私は、病院と診療所を一人で強く結ぶ病診連携をやっております。

(下京西部・くらた医院・倉田 正)

開業医2年生

 子どもの頃から開業医の両親が苦労する姿を見て育ちましたので、自分にはとても務まる仕事ではないと思っていました。長年1人医長をしておりましたが、臨床研修制度の開始に伴い大学からの応援が絶たれ、度重なる医療費抑制の煽りを受けて勤務先病院が人件費削減のためコメディカルを大幅に解雇した結果、年収は減り続けるのに仕事量と責任は増す一方で、心身ともに疲れ果ててしまいました。また、数年前に両親が大きな病気をしてしまい、介護が必要になったことを機に、開業することになりました。

 覚悟はしておりましたが、予想以上に従業員の管理と理不尽なレセプトの審査には悩まされました。また開業して半年後に骨折したため、収入が途絶えるだけでなく、従業員の給与の支払いの心配までしなくてはならず、収入の不安定さを改めて認識しました。開業前の病院から予想以上に多くの患者さんが来てくださるのには驚きましたが、開業後の方が患者さんとの距離が近くなったような気がします。勤務医の頃にはなかったことですが、家庭内や個人的な相談事をされたり、それまで一度もお会いしたことのなかったご家族や友人まで遠方から連れ立って来院されたり、本当に嬉しい事態です。高齢の方が多いため、いつまで通院していただけるかはわかりませんが、私にできる限りのことは何でもして差し上げたいと考えています。

 「開業医=楽して儲かる」という、誤った報道がされていますが、これに便乗して最近、無責任な経営コンサルタントや建設会社、電子カルテや薬卸、税理士事務所までが利益を享受しようと、開業セミナー等で開業を煽っています。安易に開業に走って後悔することのないように、勤務医の先生方には開業医の実態を正しく伝える必要があると思います。勤務医以上にマスコミや厚労省の役人には正しく知っていただく(本当は知っているのに誤解したふりをしているだけかも?)必要がありますね。質の良い医療を提供するには今の医療財源では無理があり、医師達はもっと団結して国やマスコミに訴える必要があると思います。

 今はまだ理想のクリニックとはほど遠い存在ですが、少しでも地域医療に貢献できるよう、今後も試行錯誤を繰り返していこうと思います。まだまだ開業医としては駆け出しですので、ぜひともベテラン開業医の先生方からご指導を仰ぎたいと考えております。

(A)

病院現場の危機は、産科、小児科、救急だけ?

 上京東部で開業したばかりの、草田眼科医院の草田と申します。定年をひとつの動機にして開業しました。先輩たちからスタッフの定着が難しいという話を聞いていましたので、私のところは、前からの知り合いばかりに声をかけスタッフを集めましたので、その点ではうまくいっていると思います。

 私は眼科医ですが、目という小さな場所でも、いろんな疾患があります。私が最後に勤めていた病院は、10年前の病院の移転の際にNICUと小児科病棟に移るまでの間を受け持つGCUなど、未熟児専門の病棟ができて、産婦人科、小児科がすごく充実しました。やはりあちらこちらから未熟児が集まるようになってきました。また小児科の技術の進歩で、15〜16年ほど前に表面活性剤(サーファクタント)が開発され、飛躍的に未熟児の命が助かるようになりました。より小さな未熟児が生まれ、育つようになり、昨年の未熟児の中には380〜390グラムで、もう掌に手足も全部乗ってしまうくらいの小ささです。そういう子どもたちは、必ずといっていいほど未熟児網膜症になりますから、私は多くの未熟児たちにレーザー治療を行ってきました。

 ところが最近、この未熟児たちを診察・治療できる医師が非常に少なくなっています。未熟児網膜症は、過去に、多くが訴訟になったことがあったためか、眼科医の中でも敬遠されてきたように思われます。今後の小児科の技術の更なる進歩で、ますます小さな超未熟児の命が助かるようになっていくと思われます。

 産科、小児科、救急だけではなく、他の科でも崩壊が始まっているように思われ、医療現場には、もっと総合的な人材育成が必要であることを痛感しています。長く勤務医で頑張ってきましたが、また新たに再出発したばかりです。今後とも、ご指導のほどよろしくお願い申し上げます。

(上京東部・草田眼科医院・草田 英嗣)

「町のお医者さん」をめざして頑張ります!

 与謝で開業しました木村です。

 うちの診療所としては3代目の管理者になります。初代の院長は、100人以上の患者を診続けて過労死されました。2代目の院長は5、6年おいでになったのですが、お子さんの関係でお辞めになられ、それを私が継承することになりました。

 今、患者さんは、前院長の時のだいたい半分くらい。患者さんが少なくなっていてなんとかならないかなと思っています。
専門は一般内科ですが、実際には、いろんな患者さんを診ています。「町のお医者さん」という感じになれたらいいなと思って頑張っています。真摯に向き合っていたら、きっと患者さんはついてきてくれるだろうという気持ちです。でも、患者さんのハートを射止めるのは難しい!

 与謝医師会にもいろいろ参加させてもらっています。地元密着型の先生ばかりですから、大阪から来た新参者の私にとっては、シャイな気分を乗り越えて溶け込めるまで、少しだけハードルがあるかなと思っていますが、でも、頑張って地域に溶け込めるようにしていきたいと思っています。

 経営面では、人材確保の大切さを痛感しています。体力的に持つのかどうかも問題ですし、いつまで続けられるかな〜と考えておりますが、頑張りますので、どうぞよろしくお願いします。

(与謝・木村内科クリニック・木村 進)

高齢新規開業医のひと言

 72歳まで病院に勤務していました。遅まきながら宇治久世で診療所を継承し、開業しました。一度はやってみたいと思っていました。

 長い内科医の経験が家庭医的な開業には有利だろうと考えていたわけです。しかし、体力のことを考慮して、週5日午前のみ15時間、往診あり夜診なしで2年経過しました。社会奉仕の気持ちもありますが、健全経営を心がけ、健康寿命を保つ間は地域のお役に立っていると信じて続けてみようかと思っています。

 勤務医時代、私は地区医師会の役員をしばらくやっていました。その関係で、10年ほど前からしばらくの期間、国保運営協議会に参加していました。会議の冒頭、自治体の担当者が過去の運営報告をされます。昭和…年、地域に2つの大きな病院が開設された時、とたんに国保財政が赤字に転落した。その後、保険者はいかに苦労してきたかと縷々述べられた。要するに、医療機関が増えると医療費が増加する。医師過剰は国保財政に良いことではない、医療の適正化に医療側の協力を求めるといった論調で、毎年決まり文句のように出てくるのには往生しました。厚生労働省の考え方だったのでしょうか。反論が受け入れられたとは思えません。診療側の力不足でした。

 現在はどうでしょう。病院では医師不足、勤務医は疲れ果て立ち去るほどに忙しい。しかし、過労になるほど働かねば病院経営は成り立たない状況なのです。医師も足りないが、お金はもっと足りない。開業の先生方も朝から夜まで忙しく働いています(私は例外で心苦しいところです)。

 とにかく、医師の増員も必要ですし、まず医療費の枠を大幅に増やすことが絶対に必要、決して2200億円(社会保障費)を減らすときではありません。

 医師不足の時代とはいえ、後期高齢者の仲間入りした私に大したことはできませんが、どうぞよろしくお願いいたします。

(宇治久世・あかまつ内科クリニック・赤松 春義)

やっぱり悩みは従業員確保

 私は今年、開業しました。今年の3月まで病院で勤務医をしていたのですが、小さな病院で、することもだいたい決まってきて、この先ずっと同じことばかりやっていくのかな、と漠然とした不安を感じていました。そんな時に知り合いの先生から、廃院される先生がおられるので、継承しないかという話をいただきました。

 開業すると大変だというのは、知っていたのですが、幸い、継承という形なので資金の必要はなく、引き継ぐことにしました。開業して実際に稼働してまだ間もないので、どれくらい収入があるのかなど、まったくつかめない状態です。

 困っているのは従業員の方たちが定着しないことです。昨日も広告を配りました。勤務医時代とは違って、病院では経験しないいろいろな問題や心配事があります。先輩の先生方がどういうふうに対応されているのか、これからもぜひいろいろ参考にさせていただきたいと思っています。どうぞよろしく。  

(I)

【京都保険医新聞第2651・2652合併号_2008年8月11・18日_4-5面】

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